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2006年2月

育児における「前向きなあきらめ

2006 年 2月号

『育児における「前向きなあきらめ」』

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

先日、母親学級で知りあったママ友達数人と久しぶりに集まり、育児話に花が咲いた。そして、ほかのお母さんたちの話を聞いていて、内心「私はシッターをやっていてよかったなぁ」としみじみ感じたので、そのことを書こうと思う。母親になる前から赤ちゃんに関する初知識を多少は持っているということ以上に、育児における精神的なかまえかたがちがうのだ。

まず、皆が口をそろえて「なかなか泣きやまないと、本当にイライラする」「精神的にまいる」「こっちが泣きたくなる」とこぼしていたが、私はシッティングで子どもの泣き声には慣れているので、娘が泣いていても、そう耳障りでもない
しイライラもしない。5歳くらいの幼児の全身をジタバタさせての大泣きにくらべたら、かわいいもんだ。あまり抱き癖がついても困るので、「泣くのも運動」と割りきって、だっこはせずにそばで雑務をしていることも多い。

また、赤ちゃんのペースにふりまわされ、「なかなか物事がスムーズに運ばない」「自分の時間が全然持てない」といったお母さんたちの不満も、「今はまだ、赤ちゃんなんだから楽なもんよ~」と思いながら聞いた。

つまるところ、「育児においては、ある程度のあきらめが大切である」ことを、私はこれまでのシッター経験をつうじて学んできたと思う。子どもというものは、さぁ、出かけるぞというときになって、突然ぐずりはじめたり、「公園に行く」
と騒ぐので親に電話して許可をとり、いざ公園に着くと「うちに帰る」とだだをこねたり、お腹がすいたと言うので早めに夕飯の支度をするとあまり食べず、夜遅くなってお腹がすいたと泣き始めたりと、とにかく気まぐれ&マイペースである。シッターをはじめた当初は私も多少イライラしたが、半年もするうちに「子どもというのは、そういうものなのだろう...」とあきらめるようになった。「何事も効率よくいかなくて当然」ぐらいに思っていたほうが、こっちも楽なのだ。

あきらめるという言葉には、マイナスの響きが強いけれど、育児においては「前向きなあきらめ」もあると思う。

今朝、おむつを変えている最中、おむつをはずしたその一瞬に、娘がロケット噴射のように大量のゆるゆるうんちをして、朝とりかえたばかりのシーツだけでなく、敷き布団まで激しく汚してくれた。そのあまりにも最悪のタイミングに思わず叫びそうになったが、子どもというのはそういうものである(涙)...。大きなため息をついたのち、汚れた敷き布団を風呂場でゴシゴシ洗ったのであった。
 

母と娘、その真中にいる私

2006 年 2月号

『 母と娘、その真中にいる私 』

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

先月、はじめての出産をした。現在、1ヶ月の娘の世話に追われ、その合間に最低限の家事と仕事をしている。退院後のひと月は田舎に住む母が上京して家事全般をやってくれたので助かった。私は高校卒業のさいに親元をはなれているので、母とひと月もの間、生活を共にするのは、実に十数年ぶりだった。

滞在中、母は毎日のように買物に出かけ、帰宅すると「○○を買ってきたよ」と言って、慣れない母乳育児と連日の娘の夜泣きで心身共に疲れている私におやつを出してくれた。○○は果物だったり、ピザだったり、甘栗だったり、とにか
く私の好きなものだ。おやつを食べながら、台所で夕飯の下ごしらえをする母の後ろ姿を見ていると、いつも食堂や居間で宿題をしていた子どもの頃に戻ったような気持ちになった。

寝る前の夜のひととき、母は日課のようにまだ目の見えない娘を小一時間ほどだっこして、話しかけたり、あやしたりしていた。待望の初孫を胸に抱いた68歳の母は、まぎれもなく幸福そうで、母の笑顔を見ながら「私はこれまで、あまりいい娘ではなかったけれど、これでかなりの親孝行ができた」と思え、私も幸福だった。

そのいっぽうで、ときどき、夕暮れどきの西陽がさしこむ和室に正座して、娘をだっこしながら舟をこいでいる母の背中や髪の色を見つめながら、母がもう七十近い老人であること、こうして頼れる存在でいてくれるのは、もうあと十年もないことを思い、無性に哀しくなった。
娘と私の一ヶ月健診を見届けて、母は田舎に帰ることになった。バス停まで母を送った帰り道、歩きながら、いい年をしてぽろぽろと涙がこぼれた。「母親」になったのにもかかわらず、このひと月の母との生活で、私はすっかり「娘モード」になっていて、母のいない生活に戻ることがたまらなく淋しかった。

帰宅して娘が眠る和室にぺたんと座り、しばらくぼんやりしていたら、気配に気づいたのか、まもなく娘が目を覚まして泣き出した。おむつを変えて授乳しながら、その元気な手足の動きと飲みっぷりに、私も少しずつ元気になっていった。こんなに小さな、寝て泣いて、おっぱいを飲むことしかできない娘に元気づけられていることに驚き、「実際は、親のほうが手のかかる幼子の存在に支えられている」という育児書の言葉をはじめて理解した。

今はまだ、遥か遠い、ずっと先のことにしか感じられないけれど、いつか母が本当にいなくなる時は必ずやってくる。人が子どもを産み育てるのは、最終的な心のよりどころである親を失ったときの哀しみや絶望、孤独を少しでも和らげるためかもしれない。小さな娘をだっこしながら、ぼんやりと思った。