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2012年7月

ママだって子ども

ときめきエッセイ第102回 

ママだって子ども

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

9月に、第三詩集「線路沿いの詩」を主人の絵との共著で上梓するので、今月は、その編集作業に追われている。収録する詩を選ぶため、この数年の間に書きためた作品を読み返しながら、改めて思った。子どもの視点での「母と子の情景」を描いたものが、圧倒的に多い。

母になって以降、一時期は「母の視点」にたっての「母と子の詩」を書くようになり、育児雑誌で連載していたが、まだ、母親歴が短いからか、心から納得のいくものは、あまり書けなかった。結果、いい歳をして、今もなお、子どもの視点での「母と子」の詩を書いている。

先月、田舎の母が数日間我が家に滞在した。きれい好きな母は、「毎日、掃除機だけじゃなく、ぞうきんがけもしなさいよ」と小言を言い、「忙しいんだってば」と口をとがらせる私に、6歳の娘がぽつりと言った。

「ママ、子どもみたい。変なの…」 

「だって、(母の)子どもだもん」と言い返したら、「ちがうよ。ママは子どもじゃないよ。大人だよ」と神妙な表情で、訂正してきた。その瞬間、思いだした。子どもの頃、少女だった頃の母の、モノクロの古い写真を見て、衝撃を受けたことを。

母に子ども時代が、私の母ではない時代があったことが、ただただ、信じられなかった。そして、なぜか無性に、淋しくて哀しかった。私にとって専業主婦の母は、母以外の何者でもなかったから。

娘も、かつての私とおなじまなざしで、私を見ているのだろうか。ママ(私)は生まれたときからママであり、私にも子どもの頃があったという事実は、信じがたいことで、しかも、娘を哀しくさせるのだろうか。

「ママ」としての自分は、私というひとりの人間の一部である。私はママであると同時に、いくつになっても(母の)子どもであり、女であり、読書とひとり旅をこよなく愛する一個人だ。でも娘には、それは認めたくないことなのだろうか。私が、かつてそうだったように。

ここまで書いて、はっとする。もしかしたら、私の前では、常に母の顔を保ちつづけている母も、若かりし頃は、内心では今の私と同じような、「一個人」としての自分を持っていたのだろうか。いや、70を過ぎた今も、持っているのかも…。そう思うだけで、胸がすぅっと凍りつくような感覚がよぎる。つまるところ、40を過ぎてなお、私は子どものままであり、母に母しか求めていないのである。