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子育てエッセイ

『友と成長』

2010年3月号

『友と成長』

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

今日、20年来の友人から、無事、第一子を出産したメールが届いた。うれしかった。メールを見つめながら、さまざまな感情や思い出が押し寄せて、しばらくの間、ぼんやりしてしまった。

異なる大学に通う彼女と私は、サークルの同期として出逢った。才色兼備な上、誰にたいしても丁寧で親切な彼女は、みんなから好かれると同時に、一目置かれていた。当時の私はと言えば、対人沈黙恐怖症を自ら疑うほど、常にしゃべりまくっては周囲をうんざりさせ、思ったことをそのまま口にしては顰蹙を買うという、実に救い難い存在だったが、そんな私とも彼女は1対1で親しくつきあうほど、寛容だった。

今、思えば、小学生の頃からずばぬけて勉強ができるがゆえに、周囲から浮かないよう、人の何倍も「いい人」でいる努力をしてきたのかもしれない。卒業後は宝くじ的倍率を突破してアナウンサーになり、女子アナタレント全盛の時代に、知性派として異彩をはなってきた。

かつて、10~20代の頃、彼女と接する中で、自分の知識の無さ、深みの無さ、そしてなにより人間性の低さを噛みしめた瞬間が幾度かあった。「あたしって本当にダメ…」と、打ちひしがれたことがあった。

だけど今、この年になって思う。自発的に、心の底から深く、自己を省みたときこそ、人間が真に成長するときでもあるのだ。だから、そのようなチャンスを授けてくれる友に青春時代に出逢えたことは、実は大変な幸運なのである。反省し、改心する機会に恵まれず、物事がうまくいかないたびに周囲や社会のせいにしていたら、私は決してライターとして生計をたてられるようになるまでにはいたらなかっただろうし、夫と心が通いあうこともなく、子ども達にも出逢えず、親しい友人もなく、孤独に押しつぶされていたかもしれない。それを思うと、怖い。

いつか、彼女の息子が言葉がわかるようになったら、伝えたいことがある。あなたのお母さんに出逢えて、おばさんは運がよかったと。

 

『ご近所づきあい』

2010年2月号

『ご近所づきあい』

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

昨年の4月から、我が家は(正確には夫が)自治会長をしている。正直、当初はあまりの雑務と集会の多さに、夫も私も不平たらたらであった。だが、この自治会活動をつうじて、近くに住む今年の役員9世帯と知りあいになった。独身の頃からずっと、「地域」に全く知り合いを持たずにきた私にとって、いわば人生ではじめての「ご近所づきあい」がはじまったわけである。

会長になって3ヶ月ほどたった頃、長女がウイルス性胃腸炎にかかり、嘔吐と下痢が止まらなくなった。小児科の受付終了時間まで、あと30分しかない。だが、病院の待合室で1歳の次女をだっこしながら、長女をケアするのは到底無理である。あいにく夫は出張中だし、今からシッターを頼んでも遅すぎる。途方にくれながら宙をあおいだら、壁に貼られた自治会役員の連絡網が目に入った。藁にもすがる思いで、おそるおそる副会長宅に電話をかけて、次女を一時間ほど預かってくれないか聞いたら、あっさりと引き受けてくれた。

次の集会のさいに、このことが少し話題にのぼると、他の役員の方々まで「困った時は、うちも預かるわよ」と言ってくれた。ここで、その言葉を「単なる社交辞令」としないところが私の性格であり、近くに親がいない環境で、赤ちゃんと幼児を育てる母親の切実さである。真剣な表情で、「どうぞよろしくお願いします」と頭を下げた。

もちろん、これは緊急の、または突発的な事態に限っての話で、そうでなく、予め外出の予定がわかっている場合は、やはりシッターを依頼すべきだと思う。なにより「安全度が高い」からだ。

だが、シッターは原則、完全予約制であり「今から30分~1時間以内に来て!」といった要望にはなかなか対応できない。そういうときのためにも、ご近所とのつながりを日頃からある程度は築いておくことがいかに大切か、今回の件で身にしみた。やはり子育てには、地域の手助けが必要なのである。

 

『話さなくっても楽しいよ』

2010年1月号

『話さなくっても楽しいよ』

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

年末年始の今回の帰省で、今月4歳になった長女が、私の父と少し仲良くなった。きっかけは、岳(実家のシバ犬)の散歩である。これまでは、長女は私の母と二人で岳の散歩に行くのを楽しみにしていたが、年末に母がひざを痛め、朝夕2回の散歩を父がするようになったのだ。

72歳の父は無愛想な本の虫で、孫との遊び方を知らず、好かれる努力もしない。いつも新聞や本を読みながら、時々、じろりとメガネ越しに孫達を観察している。娘がなつくわけもなく、いつも「おじいちゃん、怖い」と半径2m以内には近づかない状態だった。

なので、行くわけないと思いながら、「これから、おじいちゃんが岳の散歩に行くけど、いっしょに行く?」と聞いたら、神妙な顔をして、「…うん。さっちゃんが綱持つ」と答えるではないか。よっぽど散歩に行きたいのだろうが、すぐに父と二人でいるのが怖くなり、「もう、帰る~」とぐずりだすのではと、甚だ不安を感じながら見送った。

2時間後、「ただいまぁ」と長女が笑顔で戻ってきた。そして、それから1週間、長女は毎日、父と二人で夕方の岳の散歩に出かけたのである。「散歩中、なに話してるの?」と父に聞いたら、「なんにも」と苦笑いで答える。夜、娘を寝かしつけながら、「お散歩のとき、なんでおじいちゃんとお話しないの?」と聞いたら、「わかんない」と笑い、そして、ぽつりと言った。「話さなくっても、楽しいよ」。

その言葉に、私はしばし、感じいってしまう。いつからか、私にとって、「人と過ごす=会話をする」ことになり、10代~20代の頃などは「対人沈黙恐怖症」を自ら疑うほどになった。「黙っていては相手に失礼」「なにか、しゃべらなければ」という思いにとらわれ、かえってうるさがられたりして、「こっちは気を使って、懸命に話題を探していたのに…」と傷つくことも多々あった。そして、人に会うのが億劫になっていった。

でも、対人関係は娘が言うように、話さなくたって、楽しければそれでいいのだ。ふりかえれば、私も小学生の頃、無口なレイちゃんとよく遊んでいた。話さなくても、いっしょにいるのが楽しかったからだ。そして、きっとそれが本当の「誰かといっしょに過ごす楽しさ」なんだろう。娘の寝顔を見つめながら、そんなことを思ったりした。

 

 

 

『はじめての七五三をへて』

2009年12月号

『はじめての七五三をへて』

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

先月、もうすぐ4歳になる長女の、はじめての七五三を祝った。まず、私は朝8時に予約してある近所の美容院に行き、着物の着付けとヘアメイクをしてもらう。その後、車で迎えにきてくれた主人、娘達、夫の両親と共に、写真スタジオへ向かった。

まず、衣装室に入って長女に着せるお着物を選ぶ。はじめての着物を着て、髪もアップにして着替え室から出てきた娘は、親バカながら、やはり愛らしい。姑ときたら、目を細め過ぎて顔全体がとろけてしまいそうだ。はじめに、主役である長女ひとりの写真を何ポーズか撮ることになる。ごきげんに撮影スタッフの指示に従う娘を見守りながら、「おおきくなったなぁ」と、親として万感の思いが押し寄せる。

次は全員での撮影だ。長女を真中に立たせて、左右の椅子に舅、姑が座り、後列に私、そして次女をだっこした夫が立った。次女もドレスを着せてもらっているのだが、なかなか髪が伸びず、よく男の子と間違えられる容姿なので、かわいそうだが全然似あってない(笑)。撮影中、前に座る姑と舅の白髪まじりの頭を見ながら、長女が特に大きな病気もケガもせずに、ここまで大きくなるのに、ずいぶん二人に世話になってきたなぁと思った。

撮影終了後、パソコンの画面で写真を見て、希望する写真を購入する。全員の写真を見つめながら、「私もすっかり『松本家の嫁』って感じだな」と思う。伊豆の親に会うのは年に1、2回だが、隣り町に住む夫の両親には月に4,5回は会い、子どもを預かってもらい、そのうえ、姑の手作りのお惣菜までもらっている。

 

写真のなかで、よそゆきの服を着た舅と姑は、着物姿の長女をはさんで、なんとも幸せそうに笑っている。日頃の感謝をこめて、焼き増しを頼む。(焼き増し代1枚4000円×4枚で16000円なり…)。あちこちに見せては孫自慢する姑のうれしそうな顔が、今から目に浮かぶ。

 

『次女、1歳になる』

2009年11月号

『次女、1歳になる』

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

今日、11月11日、次女は生まれてはじめての誕生日を迎えた。夕方には夫の両親が来て、我が家でお誕生会をするため、大雨のなか、次女をだっこひもでだっこし、傘をさしてスーパーに向かう。10.5kgもある次女の、そのずっしりとした重みとぬくもりを感じながら、この1年をふりかえりつつ歩いた。

3歳まで、病気知らずで育った長女とは異なり、次女はしょっちゅう病気になってきた。まず、生後2ヶ月半頃からお通じが非常に悪くなった。下剤も効かず、1週間出ないと浣腸をして出すということの繰り返しで、精密検査をすべきか悩んだものだ。幸い、成長と共に少しずつ改善していき、今では基本、毎日出るようになっている。

生後5ヶ月頃からは、しょっちゅう咳を伴う風邪をひくようになる。8ヶ月頃までは、咳こんだ拍子に大量に吐いてしまうことも多く、本当に大変だった。深夜、激しく咳こんで、苦しそうにゼロゼロと喉をならす次女の背中をさすりつづけながら、不安で泣いたこともある。

そのほか、卵へのアレルギー反応や、一時的なひどい便秘など、次女には本当に手がかかり、「ようやく」1歳になった感がある。でも、そのせいか、次女に対しては「元気でいてくれるだけで親孝行」と思える。でも、そこではたと気づいた。なぜ、丈夫な長女に対しては、今まで、一度もそう思わずにきたのだろう?

次女が生まれてからのこの1年、私は毎日毎日、長女を叱りつづけてきた。やきもちを焼いて、次女が遊ぶおもちゃを取り上げたり、物を投げたりする長女の頭を、バシンとぶったことも一度や二度ではない。そのたびに泣き叫ぶ長女にイラだち、次女をだっこしながら「うるさいっ」と叫んだ。でも、今になって思う。長女だって次女と同じく、「元気でいてくれるだけで親孝行」なのである。けれど病気知らずゆえに、元気でいることが当然のことになってしまっていた。

だから今日は、二つの気持ちを記したい。次女には「1歳のお誕生日、おめでとう」。そして長女には「いつも元気でいてくれて、ありがとう」。

 

『キッザニア初体験』

2009年10月号

『キッザニア初体験』

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

先週、はじめて家族でキッザニアに出かけた。子どもが好きな仕事を選んで働き、お給料(キッゾ)をもらい、そのキッゾで買い物や習い事を楽しむ屋内施設である。午後4時、豊洲のららぽーと内にあるキッザニアに到着。全日空、ヤクルト、森永、出光などなど、約50の企業によるユニークなパビリオンが商店街のように並んでいる。ここは「子どもが主役」なので、パビリオン内には子どもしか入れない。親はガラス張りのパビリオンの外側から、我が子が働く姿をじっと、ときにはハラハラしながら見守るのだ。

まず、娘にどの仕事を体験したいか聞くと「パン屋さん!」と即答。調理服に着替え、帽子をかぶり、パン屋のお姉さんの説明を聞いた後で、実際にパンづくり開始となる。神妙な顔をして真剣にパン生地をこねたり、まるめたりする娘をガラス越しに見つめながら、ついつい、「ほら、ちがうでしょ」と手を出したくなってしまう。隣のママもおんなじで、ガラス越しに息子に怒鳴っている(笑)。

試行錯誤しつつも、なんとか自力で作業を進めていく娘を見ながら、日頃、自分が必要以上に娘のすることに口や手を出しすぎていることを実感する。子育てにおいては、世話を焼くより、「待つ」「見守る」ことのほうが、実は何倍も難しいのだ。

そして、はじめての「仕事」を終えた娘が、焼きたてのパン3個と初任給5キッゾを手に、満面の笑顔でお店から出てきた。「さっちゃんが焼いたんだよ!お金ももらったよ!」と得意げである。夫と私にもひとつずつくれ、みんなで食べた。おいしかった。

その後も、ピザ屋、花屋などで働くうちに、あっという間に9時の閉館となる。帰りの電車の中、本日の稼ぎ、計20キッゾを手に握りしめたまま、娘はすぐに眠ってしまった。その寝顔を見つめながら、いつか娘が本当に社会で働く日のことを思う。現実の仕事は、そう甘くないけれど、それを知るのは、まだ先でいい。子どもの頃に働くことを「楽しいこと」としてイメージできるということは、大人になることに「希望」を感じられるということだから。

 

『たくさんの不思議』

2009年9月号

『たくさんの不思議』

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

先子連れで十日間、伊豆の実家に帰省し、無事に戻ってきた。帰省中は、子ども達は親に押しつけて、ひとりの時間を満喫しようという野望もあったが、そうもいかず…。父も母も、趣味の活動やボランティアで忙しく、ほとんど毎日、外出してしまうのである。

かつては、そんな両親に不満を感じることもあった。でも、親が70を過ぎた頃から、「親もあと何年生きられるかわからない。元気なうちにしたいことをして、余生を存分に満喫してほしい」と思えるようになった。子どもだけでなく、私も少しは成長しているのである。

それでも、父は陶芸教室を、母はコーラスを休んで、帰省中に2回、みんなで海に行った。昨年は波を怖がって、「もう帰る~」と泣いていた3歳半の長女が、今年は自発的に波に近づいていくからびっくりだ。

繰り返し、繰り返し、よせてはかえす波の動きがたまらなく不思議なようで、「なんで、波がまた帰ってくるのぉ?」「どうして、また行っちゃうのぉ?」と、幾度も聴いてくる。「そんなこと、ママに聞かれても…」と思いつつ、「なんでだろうねぇ、不思議だねぇ」と答えながら、しみじみと噛みしめる思いがある。

そうなのだ。娘の言うとおり、海の波に限らず、この自然界は、たくさんの不思議で満ちているのだ。幼児の頃だけ、それを「不思議」と感じることができる。けれど、もう5歳くらいになると、「そういうものだ」という分別ができてしまい、当然のこととして受け止めるようになる。

長女が「不思議」を感じられる時間は、もう残りわずかだ。せめて、それまでの間に少しでも多くの不思議に出逢わせたい。なぜ、雨上がりに美しい虹がかかるのか、なぜ、秋になると葉っぱの色が変わるのか、どうして手のひらに落ちた雪がすぐに溶けて消えてしまうのか。その理由を科学的に理解するのは、大人になってからでいい。

 

『赤ちゃんの日光浴』

2009年9月号

『赤ちゃんの日光浴』

中舘慈子

 

こんな話を聞きました。イタリア在住のそのお母さんは、生後2週間の赤ちゃんに新生児黄疸が出たとき、かかりつけの医師に「海辺の太陽の光線を積極的に浴びさせてください。」と言われたというのです。新生児に海辺の日光浴?あまりにも無茶なのではないかと思いました。

日本でも光線療法と言って、赤ちゃんに人工的な光線を当てることにより、血液中のビリルビンを変化させて、体から排出する治療があると聞いています。しかし、海辺の紫外線は赤ちゃんにはあまりにも刺激が強すぎるのではないでしょうか・・・・?

6月のイタリアの海辺はまだ閑散としていましたが、海の家の管理人は陽気にベビーカーの赤ちゃんに笑いかけると、そのお母さんに言ったそうです。「赤ちゃんに海辺の光を当てることはとてもよいことです。今日も何人も小さい赤ちゃんが来ていますよ。」

パラソル越しの6月の優しい太陽を浴びて、赤ちゃんの肌はどんどん白くなっていったそうです。天然の光線がビリルビンを体から排出させるのを助けてくれたのでしょう。波の音、抜けるような青空も赤ちゃんとお母さんの心を癒したことでしょう。

とはいうものの、日本で新生児を海に連れて行くことがよいとは言い切れません。たとえば夏の湘南の海の紫外線はとても強く、大人でも火ぶくれができるほどです。赤ちゃんの海水浴は早くても1歳過ぎからにした方がよいと思います。それも万全の日焼け対策を忘れずに、短時間から・・・。

9月に入って、日差しがやわらかくなってきました。赤ちゃんをベビーカーに乗せて、外気浴をするのによい季節になってきました。日焼け止めや虫除けも忘れずにお出かけ下さい。木漏れ日、木々のそよぐ音や鳥のさえずり、澄んだ空気を感じながら、そして少し色づいてきた木の葉が揺れるのを見つめながら、赤ちゃんは自分が自然の一部であることを感じ、のびやかに育つ力を養われることでしょう。

 

『ことばのはじめ』

2009年8月号

『ことばのはじめ』

中舘慈子

 

お子さんが初めて話したことばは何でしたか?「ママ」だろうか?「パパ」だろうか?と楽しみにしていたご両親、意外とママでもパパでもなくて、10ヶ月くらいのときに「コレッ!」「ワンワン!」「キンギョ!」「デンチャ!」など思いがけないことばを初めて言ったという方もいらっしゃるのではないでしょうか。

大好きな人とコミュニケーションをとりたいという意欲からことばが生まれます。ママが携帯メールに夢中になっていると、赤ちゃんはママにお話しても無駄だということを感じて、あきらめてしまうかもしれません。

小さな指で指差しをしては大きな声で「ア!!」「ア!!」という我が家の1歳1ヶ月の女の子。「ドージョ」「ハァーイ!」「ジョーチャン」などいくつかのことばは言えますし、お兄ちゃんと戦いごっこをするときには「タァ~ッ!」「エイエイ!」などとは叫びますが、まだ発音がはっきりしません。「ア!!」「ア!!」「ア!!」はそれぞれ「お花を見つけた!」「パンが食べたい!」「お外に行きたい!」と言っているのでしょう。「そうね、お花きれいね」「そうなの、パンが食べたいのね。あげましょうねえ」「お外に行きたいのね。いっしょに遊びに行きましょうね」というように彼女の思いをできるだけことばにして言うようにしています。

「わかっていること」「言いたいこと」が溢れるほどあるのに、まだまだことばに出して言えない時期。手で払いのけるのは「イヤ」、ママのほうに手を伸ばすのは「ママのところに行きたい」、本を指差すのは「ご本、読んで」。ことばにならないことばですが、こんなジェスチャーを「ことばのはじめ」としてしっかり受け止めたいと思っています。

 

『あとどれくらい』

2009年8月号

『あとどれくらい』

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

毎年、夏は子連れで伊豆の実家に帰省する。特急の「踊り子」を使えば、埼玉の大宮から伊豆の下田まで、乗り換えなしで3時間ちょっとで着くのだが、我が家はいつも約5時間かけて、在来線を乗り継いでいく。浮かせた特急代で、親へのお土産とお弁当とお菓子を買う(飲み物は持参)。東海道線と伊豆急行線のボックス席を陣取り、のんびりと車窓を味わいながらいくのだ。車窓から海が見える熱海あたりから、ママとして生きる日頃の自分が少しずつ遠ざかり、娘の顔になって、遠い日の情景を思い出す。小学生の頃の私は、長い髪を三つ編みにして、母が縫うワンピースを着た、海沿いの町に住む、日に焼けた少女だった。あの頃は商店街がまだまだ元気で、百円の御駄賃がうれしくて、しょっちゅう肉屋や八百屋にお使いに行った。そして、お店のおじちゃん、おばちゃんも、子どもひとりのお客には、「お使い、えらいねぇ」と飴やキャラメルをくれた。

実家に着くと、母が満開の笑顔で迎えてくれる。七十を過ぎてから、母はずいぶんと老けてしまった。太っていた50代の頃より10キロ近く痩せたこともあり、なんだか年々、小さくなっているような気がする。ひざベルトや虫眼鏡を愛用する母は、元気だけれど、もう、完全に老人なんだと思う。

お茶を飲んだあと、私は二階に上がって少し休む。夕寝から覚めて下に降りていくと、縁側で、母と娘が笑いながら、野菜の皮をむいている。

二人の背を見つめながら、母が孫娘と過ごす夕暮れは、あとどれくらいあるだろうと思う。わたしがこうして、ママから娘に戻れるひとときは、あとどれくらいあるのだろうと、思いながら母の背を見ている。

「あぁ、お腹すいた。お夕飯なぁに」

三つ編みの頃と変わらない口調で、縁側の母の背に声をかける。

「しづちゃんが好きなグラタンよ」

母が、皮をむきながら言う。