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子育てエッセイ

『娘家族との同居時代』

2008年9月号

『娘家族との同居時代』

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

先日、学生時代からの友人に第二子が生まれ、赤ちゃんフェチの私は、いそいそと遊びにいった。友人は第1子が産まれたときに、実家を2世帯住宅に建て替えて御両親と暮らしている。実の両親との2世帯は快適なようで、煮詰まることもなく育児を楽しんでいるようだ。御両親も、それまでの夫婦ふたりだけの生活から、実の娘と、かわいい孫娘達との暮らしになり、幸福そうである。

この友人に限らず、私の周囲には、実の親と同居(2世帯を含む)、もしくはスープの冷めない距離に住んでいるママ友が非常に多い。田舎の親が自分達のそばに引っ越してきたというケースもあるほどだ。いっぽうで、夫の両親のそばに住むママは少数で、日本文化の変遷を感じずにはいられない。かつては息子が親のそばに住むのが一般的だったが、今は娘のほうがそばにいる可能性が高いのだ。しかも、結婚した娘をなんとかしてそばに置いておきたい親の気持ちもやたらと強く、そのためにはお金も惜しまない。

「そのほうが嫁姑問題もなく、娘の夫は仕事で家にいる時間が少ないから気を使うこともあまりないので、万時うまくいく」という意見に押されて、娘家族との同居は、今後、益々普及していくだろう。たしかにそうだなぁと思いつつ、私は一抹の懸念も感じている。

昨年、離婚した友人は、元夫とぎくしゃくしはじめた頃、「俺がいなくても、君はたいして困らないよな」と言われたという。「家もあるし、階下には経済力もあり、子育てにも協力してくれる親がいるから仕事も両立してるし、俺がいなくても困らないだろう」と。話を聞きながら、一家の大黒柱どころか、家庭における自分の存在意義を感じることができなかった、その元御主人の孤独がわかる気もした。結婚した娘と親とがいつまでもべったりでは、娘夫婦の絆は深まらない。その危険性を娘の親は常に心にとめておく必要があると思う。

 

『米国の中高生事情』

2008年8月号

『米国の中高生事情』

市橋理恵子(ファミリー・サポートスタッフ)

 

夏休みに2週間の休暇をとり、家族で4年3か月ぶりに米国カリフォルニアに帰った。夫の海外赴任に伴い6年6か月間住んだ第二の故郷である。赴任時に2歳と4歳だったわが子たちは今13歳と15歳、かつての友達たちもまたティーンエージャーになっており、お互いに懐かしいやら、照れ臭いやらの再会を果たした。

親同士も思い出話をしながら、「あなたがいなくなってから、ずっと学校の送り迎えのカープール相手を見つけるのに苦労してね…今年も休み明けのめどがまだ立っていないの」とこぼされた。この友人は学校の先生をしていて、朝の出勤が早かったのでいつもその娘二人が我が家で少し時間をつぶしてから、一緒に学校に車で送っていっていたのである。その代りお迎えはその友人が行ってくれることになっていたが、急な用事で間に合わない時には電話がかかってくるのでいつもお迎えの時間には私も待機していたものだ。

車社会のアメリカでは、中高生になっても免許を持っている大人に送り迎えをしてもらわないと学校にすら行けないということに改めてびっくりした。デートをするにもどちらかの親が車で迎えに行ってデートの場所まで連れて行き、約束の時間にはまた迎えに行くから、「いつ、誰と、どこで」なんて内緒にできるはずもない。安心と言えば安心だが、親は走り回ってばかりでたまらないだろう。

「そんなことをして安全なのか?お金まで持たせて大丈夫なのか?」とかえって私が保護義務を怠っているとでも言わんばかりの反応だった。思えば帰任時には小学3年と6年だった子どもたちが学校まで歩いて通学するのが心配で、私も離れて後をついて行ったことを思い出す。あれから我が子らは無意識に周りの車や人の動きを察知しながら安全に通行することを覚え、小銭で切符を買って電車に乗ることも覚えた。携帯電話に潜む危険や、変質者がいる可能性などについても知らせてきたので、部活動などで予定が変更になれば自主的に家に連絡を入れるようになった。電車の運休や天候の急変など不測の事態への対応も経験し、判断力も鍛えられてきた。

日本とアメリカでは社会の状況が異なるので、どちらが良いとか悪いとかいう問題ではないが、安全で便利な交通機関が整っていて、その中で少しずつ社会人としての自律心と対応力を養っていける日本の環境は守っていかなくてはと感じた。また、見えにくくなる子どもたちの行動と心に細心の注意を配ることの大切さも。

一方のアメリカでこれから2,3年の間に、娘の友達たちが車の免許を持ち、親の家を巣立って行くその過程はどのようなものになるのか?その頃にまた会いに行きたいものだ。

 

『八月が来るたびに』

2008年8月号

『八月が来るたびに』

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

毎年、8月が来るたびに、テレビで原爆の式典を見ながら思いだすことがある。もう、20年以上も昔のことだ。当時、私は南米に住み、アメリカンスクールに通う高校生だった。その学校には、世界各国の米国と友好関係にある国の生徒が在籍していたが、教師のほとんどは米国から派遣されてきた20~30代の若い白人教師だった。

この学校で、17歳の私は米国人教師によるアメリカ至上主義の偏った教育に驚くことになる。世界史の授業で、母国が史上初の原爆投下「成功」国であることを、教師が多少誇らしげに語ったときは、心底驚いた。そのうえ、原爆投下によって日本は誤った戦争に終止符を打つことができ、米国との安全保障条約による平和のもと、戦争を放棄して経済発展に集中できたから、これほどの経済大国に成長できたといった趣旨を淡々と語った。私は聞きながら、悔しさや怒りよりも、恐怖を感じたのを覚えている。原爆投下を肯定する教育が、次ぎの世代に向けてこうして受け継がれているという事実が、ただただ恐ろしかった。

あの頃、私の英語力は低く、流暢かつ完璧な英語で、理知的にあの教師に異議を唱える自信も勇気もなく、ただうつむいていただけだった。今、思えば、抗議の意志を示すためだけでも、教室から出ていくくらいの行動はとるべきだったのかもしれない。けれど、その後、やんわりと転校を促されるのが怖かった。「目ざわりな存在は排除したい」という米国政府の思想は、世界各国のアメリカンスクールにおいても健在なのだ。

偏った教育の恐ろしさを実感したこの出来事は、その後、私が教育関係のライターになったきっかけのひとつになっている。「いい教育」についての意見は多々あるが、私が思う「いい教育」はバランスのとれた教師による、つねに生徒に考えさせる余地を与える教育である。そういう教育を、すべての子供が受けられれば、世界は確実に進歩していくと信じている。

 

『悪阻中に得たもの』

2008年7月号

『悪阻中に得たもの』

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

…ようやく悪阻が終わった。まだ、夜になると多少ムカムカするとは言え、ピークの頃に比べたら天国だ。この3ヶ月は実に長く、つらい日々だった。でも、得たものも少なからずあったと思う。

まずなにより、健康のありがたさを改めて実感した。悪阻中は、娘の食事づくりと食べさせる作業は拷問に近く、しかも全然食べてくれないときは、ヒステリックに怒りながら泣いてしまうこともあった。そして、おいしく食べられる喜び。食べる楽しみのない人生というのは、なんとつらいものなのだろう。

そして、車で30分の距離に住む主人の両親に対する感謝の想いも深まった。それまでは、育児やプライバシーに対する感覚の違いなどで戸惑うこともあったが、悪阻中は義母が届けてくれる手作りのお惣菜や果物、そして娘の相手をしてくれることが、心底ありがたかった。和室で横になりながら、隣のリビングで娘のおままごとの相手をする義母の声を聴くたびに、過去に私が義母にとった無愛想とも言える態度が思い出され、なんだか恥ずかしかった。

そして、夫も娘も成長した。以前は締切に追われ、仕事部屋にこもりがちだった夫が、さすがに考えを改め、できる範囲で家事や育児に協力してくれるようになった。前は「パパよりも断然ママ」だった娘も、いつもぐったりしているママよりは遊んでくれるパパのほうがいいようで、この三ヶ月で驚くほどパパっ子なっている。夫も大変だと文句を言いながら、まんざらでもなさそうだ。

 

『お薦めしたい本』

『お薦めしたい本』

中舘慈子

 

「親たちの暴走」日米英のモンスターペアレント多賀幹子著

 

親は教師を否定してはいけない。子どもは先生を信頼しなくなる。

これほど教師にも子どもにも不幸なことはない。子どものいないときに大人同士で先生批判をすることもあるだろうが、間違っても子どもの前では慎もう。むしろ親は先生をほめよう。授業参観から帰宅したら、「いい先生ね」「教え方が上手ね」「ユーモアがある」とよいところを具体的に伝えよう。子どもはきっと喜ぶ。先生をほめられると、まるで自分がほめられたかのように感じるらしい。先生について家庭で問題にするときにはさりげなく敬語を使いたい。子どもに先生を尊重する気持ちがはぐくまれるだろう。

知人の多賀さんからこの本が届きました。上記の部分は第5章

「モンスターペアレント」と呼ばせないためにのほんの一部です。

「教師と保護者の対立でもっとも損害をこうむるのは子どもたち」と、筆者は述べています。小学生の保護者の皆さまや教職についていらっしゃる方に目を通していただきたい本です。

 

『はしか』

2008年7月号

『はしか』

中舘慈子

 

「今何時?」「○時になったら教えてね。塾に行くから。」と尋ねるお子様が多いとシッターさんから聞きました。しかもぎっしり詰まったスケジュールノートや携帯電話を片手に・・・。テレビやゲームの画面はめまぐるしく変わり、大人たちは早口でしゃべり、すべてのものがスピードを増して子どもを急かしているような現代は、大人の時間がそのまま子どもの時間になっているような気がします。

子どものころの記憶ほど心に残っていませんか?それは子どもの時間がゆっくり流れていたからだと思います。思いきり自由に遊んだ時間、自分で工夫して遊んだ時間などがあったからではないでしょうか。

確かに、今の子どもたちは忙しいのかもしれません。シッターがうかがう時間の中で少しの間だけでも、テレビの電源を切って本の読み聞かせをしたり、ごっこ遊びをしたり、手作りのゲームをしたり、子どもたちにゆったりとした子どもの時間を味わっていただきたいと思うのです。

 

『伯父の自叙伝』

2008年6月号

『伯父の自叙伝』

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

先月、岩手に住む、八十五歳になる伯父から自叙伝が届いた。「大東亜戦争生き残りの記」(深沢正著)と記されたその本を、ひと晩で一気に読んだ。伯父は物静かで、いつも微笑んでいる優しい人で、私は会うたびに、自然豊かで人情あふれる、あたたかい環境のなかで生きていると、こんな穏やかな人柄になれるのかなと思ったものだ。

だが、伯父の外地での壮絶な戦争体験を読み進むうちに、私は自身の甚だしい勘違いに気づかされる。極限下では、助け合いの精神も崩壊せざるをえない状況を伯父は簡潔な文章で淡々とつづっていた。フィリピンの山中で、大勢の仲間が自決、餓死していくなか、野草を食べながら必死で生き延びた伯父は、精神的にあたたかいどころか病んでもおかしくない環境を生きぬいた人だったのだ。

「野山別け聚る(あつむる)兵士十余万還りて成れよ国の柱と」これは、処刑された山下奉文大将の辞世歌だ。終戦後、フィリピンの米軍基地にある捕虜収容所で生きていたときに回覧され、伯父はそれを手帳に書き記した。今は大きな書になって、伯父宅の床の間に飾ってある。

この言葉どおり、伯父は復員後、教員に復職し、地域の4つの小学校の校長を勤め、定年後も公民館長や教育委員会の立場から地域の教育に尽力してきた。伯父は優しい以上に、何倍も強い人だったのだと思う。

「つらい思いをした人ほど、他人に優しくなれる」と言った言葉を、私は心から信じてはいない。それによって屈折してしまう人だって大勢いるし、私自身そういう部分がある。それよりも恵まれた環境でつらい思いもせずに、すくすくと育つほうが自然といい人柄になり、幸福な人生を歩みやすい気がする。娘にも、生まれてくる子どもにも、できるかぎりつらい思いはさせたくない。

でも、そう思ってしまうのは、私の弱さゆえかもしれない。あの優しい伯父が背負ってきた壮絶な過去にふれ、今、少しだけそう感じている。

 

『ママ、ビデオに負ける』

2008年5月号

『ママ、ビデオに負ける』

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

3月の半ばから悪阻がはじまり、もうすぐ5ヶ月めに入るというのに、いまだおさまる気配がない。体重も5キロ減った。普段の私なら狂喜乱舞の事態なのに、鏡にうつるボロボロにやつれた自分の顔を見て涙ぐむ。家事も育児もままならず、家族に申し訳ない思いでいっぱいでいる。

これまで、娘にはなるべくテレビ・ビデオを見せない方針だったが、私が少しでも横になって休めるようにと、夫がアンパンマンのビデオを買ってきて一度見せたら、娘は完全にハマってしまった。ビデオを見ながら歌い、踊り、終わると「終わったった~」と寝ている私の元にかけてきて、巻き戻しをせがむ。最近は、朝、起きるやいなや、ビデオのカセットを持ってきて、「いれて~」とせがむほどだ。私もついつい、自分が休みたい一心で、また見せてしまうという悪循環…。

しかし、これまで知らなかったが、ビデオほどママを必要なときに自由にしてくれるグッズはないことを実感している。どこの家にも子供用ビデオがいっぱいあるわけだ。見せている間は、子供もテレビの前を離れないから危険もないし、教育的要素が高いものも多い。内容を吟味して、限られた時間のみ見せるぶんには、ビデオもいいかも…などと、私のビデオ肯定度もどんどん高くなっている。

昨晩、少し体調が良かったので、娘に絵本を読んであげていたら、娘は途中で立ち上がり、テレビの前でしつこくビデオをせがみはじめた。「ママといっしょに絵本」より、「ひとりでビデオ」のほうがいいのかと、驚きを持って、しばし娘を見つめていた。はじめて、娘に傷つけられた瞬間だった。夜、夫に話したら、「今まで『ママべったり』で大変だったから、いいじゃない」と笑っていた。…それはそうだけど、でもジイジでもバアバでもなく、ビデオに負けるとは、母として少し情けないような気もする。

 

『階段からの花見』

2008年4月号

『階段からの花見』

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

このひと月は、いろいろあった。まず、先月半ばに浦和から大宮に引っ越した。1年程前から中古の一戸建てを浦和周辺で探しはじめたのだが、半年たつ頃には私達の予算では相当古くて狭い物件になることを深く理解し、結局、中古マンションに落ち着いた。

新居は安かっただけあって、5階建の5階でエレベーター無し。2歳の娘の手をひき、毎回ふうふう言いながらのぼっている。後ろから、ベビーカーと買い物袋を抱えた夫が、「毎日のことだから、こりゃ最高のメタボ予防になるなぁ」と笑いながら言う。

途中、3階の踊り場で休憩しながら、中庭の満開の桜を見る。太い幹は5階のベランダまで枝を伸ばし、リビングと和室の窓からの眺めを、はかない薄桃色に染めてくれる。ベランダに椅子を出して、ビールを飲みながら桜をめでるのが、今の私達の何よりの楽しみだ。

来年の今頃は、この階段を4人でのぼっている。わたしは、赤ちゃんをだっこして。夫は、娘の手をひいて。そして、やはり3階の踊り場で休憩しながら、家族で満開の桜を見るだろう。3歳になった娘は、桜を見て、なにを話すのだろう。2か月になるお腹をさすりながら、そんなことをぼんやりと思う。

第2子懐妊に気づいたのは購入の契約をしてからだ。正直、そのときはかなりブルーになった。赤ちゃんをおんぶして、娘の手をひき、買い物袋を持って5階までの階段をのぼるなんて考えただけで疲れる。けれど最近の娘は、手すりにつかまりながら、ひとりで階段をのぼり降りするようになってきた。母親の不安を少しでも和らげようと、娘もがんばっているのかもしれない。

「毎年、桜が咲くたびに、俺はここを買ってよかったと思えるよ」。そう笑う夫に「そうだね」と答える。そして、「さぁ、もうひとがんばり」と、残りの階段をのぼりはじめる。

 

 

 

『先輩指南役』

2008年4月号

『先輩指南役』

森田公子(ベビーシッター)

 

今春、息子が大学を卒業し、保育園勤務する運びとなりました。私が子育てしながら保育士として働いていたことをどのように見ていたのか分かりませんが、楽しそうな母の姿として目に焼きついているようです。子育ても一段落、故郷の先輩、後輩と当時の苦労話を楽しむような年になってきた私です。

保育料が手集金だったこと、通園バスに乗り遅れそうになったこともありました。七夕には雁皮紙で縒って作ったこよりを使いました。夏の暑い日、午睡時に鮮やかな指さばきで教えてくれた先輩のこよりは見事なものでした。また、毎月の皆勤賞に手づくりのご褒美をあげることを先輩が提案し、私は製作物をできる限り小さくして3センチ角ほどの折り紙で風物詩を表現し、連絡帳に貼りました。今ならシールですね。おかげで欠席児童が少なくなり、こちらは悲鳴を上げたことさえありました。

あの先輩が自分を率いてくれ、それに応え、覚えることがうれしかったのは『若さ』のせいだったのでしょうか。

老婆心ながら息子も保育園に勤務する中でそんな先輩指南役の存在に気づき、素直に学んでほしいものだと願わずにいられません。