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子育てエッセイ

もっと自由になって、お母さん。~「産褥シッター」を利用して (3)~

 

もっと自由になって、お母さん。

~「産褥シッター」を利用して (3)~

白川 優子(ライター)

 

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ファミリー・サポート バンビーノクラブのマンマサポーターは、産褥期が終わっても、産後一年まで利用することができます。育児も半年を過ぎると、「ひたすら寝たい」「ゆっくり食べたい」という、本能的な欲求を満たすための手助けをしてほしかった初期に比べ、マンマサポーターさんに依頼する内容も少し変わってきました。

 

我が子は頑なに母乳以外を受け入れない赤ちゃんでした。誰かに預けたくても、限度はMAX3時間くらいだったので、例えば終日の外出などは無理。往復時間を考えると、大好きな銀座ショッピングも、ワーグナーのオペラも、フルコースのディナーも全部封印でした。

「かわいい宝物に恵まれたのだから、自分のやりたいことはできなくても幸せ。」そう言い聞かせてはいたけれども、仕事も飲み会も3時間以上の外出も、自由にできる夫と比べて、妊娠中からお酒も飲まず、食事制限をし、3時間枠内の活動時間、すべて自分だけが我慢している気がして・・・と、そんな愚痴もシッターさんは聞いてくれ、こんな提案をしてくれました。「なにも、シッティングは自宅でなくてもいいんですよ。例えばお母さんのお買い物に、赤ちゃんを連れて私が同行して、合間に授乳だけしていただければ、終日の外出だってできますし、ゆっくりお食事したい場合はレストランの近くで赤ちゃんをみていることだってできますよ。もうちょっと、お母さんの自由な時間をとってみたらいかがですか。」

 

目からウロコでした。ベビーシッターさんというのは、家で赤ちゃんをみて留守番をしているという図式がずっとあったのですが、同行してもらうというアイデアはありませんでした。授乳問題がクリアできるとなると、活動範囲も時間も広がる!と、色々考え出しました。

とはいうものの、シッターさんにベビーカーを押してついて来てもらってショッピング、授乳してまた引き続きショッピング・・・?って芸能人でもないので考えてみたらそこまで買うものもないわ・・・と冷静に却下。

 

でも、そういえば最近夫と二人でゆっくりお食事をしていないな。3時間くらいかけてゆっくりフレンチでもしてみようか・・・シッターさんと赤ちゃんはどこにいてもらおう?レストランの近くでお散歩といっても、3時間もベビーカーでお外はさすがに疲れてしまう。ということで、考えたのが、ホテルの部屋を予約し、そのホテル内のレストランでお食事をいただくこと。銀座のホテルでシッターさんと待ち合わせをし、お部屋で授乳をしたら、赤ちゃんはフワフワのベッドでゴロンゴロンし、ご機嫌!何かあればシャワーもあるし、お部屋の中なら安心・・・と、授乳服からちょっとおしゃれ着に替え、夫とレストランで待ち合わせ。

久しぶりにいただいたフルコースの美味しかったこと!夫と会話がはずんだこと(子どもを「かわいいね、かわいいね」という話題ばかりでしたが)・・・心から贅沢な時間を楽しむことができました。実は、食事中に窓の向こうに、シッターさんと赤ちゃんの姿が一瞬見え、「???」と思ったのですがシッターさんがジェスチャーで「OK」の印をつくってくださったので、そのままおまかせしました。後からうかがうと、「しばらくお部屋の中でご機嫌だったのですが、ちょっと飽きてしまったようなのでお散歩に行きました」とのこと。自宅でなくても、臨機応変に対応してくださったことに本当に感謝しながら、銀座のホテルでディナーしちゃった!と夢のようでした。

 

世間では「子育て中なんだからガマン」と言われてしまうかもしれません。病気や仕事でもないのに子どもを預けることに、罪悪感がないわけではありません。でも、ほんの数時間、母親が自由な時間を持つことは、いけないことでしょうか。パートナーと二人だけのゆっくりした時間を持つことも、大切なことではないでしょうか。そんな私の気持ちを理解してくださったマンマサポーターのシッターさん。困ったときはもちろんですが、ちょっと贅沢をしたい時も、「そういう時間があってもいいんですよ」と優しく背中を押してくださったことに感謝なのでした。それからは今回のように外出に同行してもらい臨機応変に動いていただくのか、自宅で家事育児中心にみてもらうのか、目的も伝えて、きちんとそれにあったマンマサポーターさんを手配していただき、たくさん助けられながら短い育児休業期間は過ぎてゆきました。

 

(マンマサポーター利用のエッセイは今回で終わりです。次回からはマンマサポーターを卒業し、職場復帰してからのベビーシッター利用についての内容となります)

麺類、恋しや?~「産褥シッター」を利用して (2)~

 

麺類、恋しや?

~「産褥シッター」を利用して (2)~

白川 優子(ライター)

 

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産後びっくりしたことの一つに、「異常な空腹感」がありました。毎日毎日、一歩も外に出ないことも多いはずなのに、いつもお腹がグーグー・・・幸いなことに母乳の出に恵まれ、赤ちゃんもたっぷりと飲んでくれたので、食べても食べても、すぐにそれは栄養となり、母乳となって赤ちゃんにすべて吸い取られていくようでした。
毎朝炊きあがる三合のご飯は夕方までに空っぽになり、炊きなおすので炊飯器は24時間フル稼働。夜中も授乳のついでにとにかく食べたい。のそのそと起き出しては塩むすびを握っていましたが、できれば炊飯器からそのまましゃもじですくって口に運びたい、と思うくらい、常に動物的な空腹感に満ちていました。米びつのお米の減り具合が尋常ではないのと、暗闇の中で炊飯器に頭をつっこんでいた(ように見えた)私に衝撃を受けた夫が思わず発した、「飯くわぬ嫁!!(飯を食べないお嫁さんをもらったと思っていたが、実は夜中に頭に開いた大きな口に握り飯を放り込んでいた、という昔話)」に苦笑・・・。

そんな私の楽しみとなったのが、マンマサポーターのシッターさんの作ってくれる美味しいお食事をゆっくりいただけること。一人で赤ちゃんをみていると、オムツ換えに妨げられながらやっとこさ作ったご飯も、温かいうちに食べられません。「さあ食べよう!」という時に限って、なぜか赤ちゃんがぐずりだす・・・特にパスタ、ラーメン、そば、うどんなど、麺類が大好きだったのですが、産後はすっかりNGメニューになってしまいました。片手で赤ちゃんを抱っこして揺らしながら、冷えて伸びきった麺類をいただく悲しさといったら…。
『「いただきます」 言った瞬間 赤子泣く』などと、育児あるある川柳をつぶやくことで自分をなだめながら、空腹で孤独な毎日を送っていた私にとって、シッターさんが来てくれる日は「温かい食事を温かいうちに食べる」ことができ、大好きな麺類もいただける、本当に幸せなひと時だったのです。

マンマサポーターができるシッターさんはあちこちで引っ張りだこらしく、毎回同じシッターさんをお願いすることはできないこともありましたが、それも私にとっては、「シッターさんによってお食事の味が違う」と、ちょっとした楽しみになっていました。私は食事制限のある桶谷式の母乳指導を受けていたのですが、それも伝えると限られた食材・調味料の中で、皆さん上手に様々なお料理を作ってくださいました。
自分で作るとどうしても同じようなものになってしまうのですが、レシピを聞いたり、色々なバリエーションのお食事をいただけるのは、外食もままならなかった私にはありがたいことでした。

「好きな時に寝る」「食べたいものを食べる」そんな当たり前の日常が、赤ちゃんを産んだとたん、当たり前でなくなる。赤ちゃんは可愛いけど、オムツ換えと授乳の無限ループの間に無常に日は暮れていく。そんな孤独と寝不足で、身も心も空腹だった私を満たしてくれ、育児を楽しくしてくれたマンマサポーターのシッターさんたち。同じような思いをしているママたちに、ひろくこのサービスが行き渡ればよいなと、思っています。
                         

次回へ続く

産後、初めて眠れた日。~「産褥シッター」を利用して (1)~

今月から、数回にわたり、お客様と弊社のベビーシッターとの関わりをつづったエッセイを連載していきます。

 

産後、初めて眠れた日。

~「産褥シッター」を利用して (1)~

白川 優子(ライター)

 

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産後、実家や頼れる誰かがおらず、一人で過ごさなければならないママは少なからずいらっしゃることでしょう。私もその一人でしたが、長男出産後、母のすすめで初めて「マンマサポーター(産褥シッター)」なるものを利用してみました。産後すぐで動けないママにかわって、家事もしてくれるというサービス。

来てくれたシッターさんは、優先順位をつけて何をすればよいか毎回聞いてくれました。赤ちゃんの沐浴等もしてくれますが、山のような洗濯物や片付かない部屋の中が気になっていた私は、迷わずいつも家事を頼んでいました。それはそれで、とてもありがたかったのですが・・・

 

ネットなどで調べると、“疲れない育児のコツ”に、「赤ちゃんが寝たら、その間に何かしようと思わず、ママも一緒に眠ること」などとありますが、私の場合、赤ちゃんが寝た瞬間にタイミングよく眠くなれるほど器用ではなく、逆に「今だ!さあ寝なきゃ」と思うとかえって目がさえてしまったりして、どうもうまくいきませんでした。

運よく眠れたとしても、深~い眠りに落ちた一番気持ちよい瞬間に「ホギャアァ!」と起こされたりすると、ずっと起きていた方がましだったのではないかと思うことさえありました。

そんな日々が続き、よほど眠りに飢えていたのか、シッターさんが来てくれたある日、「今日は主に何をしましょうか?」と聞いてくれた時、思わず「寝たい・・・」とつぶやいていました。

その後、そのまま地球の裏側まで沈んでしまうのではないかと思うくらい、深い深い眠りに落ち、泣き声ひとつ聞こえず、静寂の中で、何時間眠ったでしょう(実際は1時間くらいだったのに、長時間に思えた程の産後初めての熟睡だったのです)。

何かに起こされるのではなく、気が済むまで寝て、自然に目覚めたのも、とても久しぶりの感覚でした。

あまりに静かだったので、赤ちゃんも寝ていたのかとシッターさんに尋ねると、「ずっと起きていましたね~いい子でしたよ!」とニコニコおっしゃいます。思わず「この人、神?」と・・・少々大げさですが、それくらいありがたかったのです。

その日、久々の熟睡効果からか、シッターさんが帰ってからも、赤ちゃんがとても可愛く思え、そして色々なことがはかどりました。

 

マンマサポーターには、せっかくなので、家事を色々やってもらわないと損、くらいに思っていたのですが、私が一番必要としていたのは、ただただ「眠らせてくれる時間」だったことに気付きました。

さすがはプロ、ギャンギャン泣く声も聞こえず、いつも心からリラックスできる時間をくれました。

マンマサポーターとの上手なお付き合いの仕方がだんだんわかってきてからは、赤ちゃんがご機嫌で起きている時は私がみて、その間シッターさんはテキパキと洗濯物をたたんだり、要領よく食事を作ったりしている。フギャフギャ泣くと飛んできてくれて、上手にあやしてくれる。シッターさんが帰った後は、家の中はきれいになっていて、食事はできていて、キッチンも片付いていて、何より自分の心がスッキリしていました。

そんなことから、身体も心も休ませてくれる「マンマサポーター」という存在を、とても心強く感じたのでした。

 

次回へ続く

「シッター制度」が日本を救う

ときめきエッセイ  第134回 最終回

「シッター制度」が日本を救う

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)


十年つづいた当エッセイも、これが最終回となった。終了の告知をして以来、さまざまな読者から私のHPに、当エッセイ集の書籍化についての問い合わせが来た。うれしかった。ファミリー・サポートとも話しあい、年内には1冊にまとめたいと思っている。発行日が決まったら、詳細をHP「夕陽色の詩集」で告知するので見てほしい。夫との詩画展の開催情報もひきつづきHPで告知していくので、また、どこかの会場で会えたらうれしい。


最後は、シッターという仕事についての、私の思いを書いておきたい。


●シッター経験をへて母になった幸運

私は母になる前にシッターをしていたので、赤ちゃんがしょっちゅう嘔吐することも、2歳児の大変さも少しは知っていた。ある程度の「知識」と「経験」と「覚悟」を持ってママになったわけだが、それでも初めての育児は大変で、ずいぶん神経質にも感情的にもなった。もし、シッター経験がないまま、いきなりママになっていたらと思うと恐ろしい。児童虐待防止は、日本が抱える最重要課題のひとつだが、シッター経験をへて母になる女性が増えることで、虐待件数は確実に減るだろう。


●「自分専用の大人」がいる幸福

家にいる時、母親は忙しい。働いていたら、なおさらだ。だからどうしても、子どもの相手はなにかしながらになる。そのうち、ちゃんと話を聞いてくれないことに子どもが怒ってけんかになり…。そんな日常の中で、子どものストレスもたまっていく。

シッターは、たとえ2時間でもしっかり自分と向き合い、話を聞いてくれ、遊んでくれる、いわば「自分専用の大人」である。そういう存在が、どれほど子どもの心を満たすだろう。

実際、「シッターを頼むようになってから、子どもが落ち着いてきた」「親の気をひくために嘘を言う癖が直った」といったことをよく母親から言われた。小学生以上の「上の子」の変化に感謝されることもあった。上の子も、こちらから話しかければけっこう話すのだ。

学校での人間関係等に悩んでいる上の子もいた。私も親には話せなかったので、親じゃない「他人」の私になら話せる気持ちがわかった。その後、私から保護者に報告して、保護者が担任と話し合い、問題が改善して上の子の表情が明るくなったとき、シッターって私が考えていた以上に意義のある仕事なんだなと思った。

 

●ママ友とは違う、母親とシッターの関係

昔も今も、「ママ友」との関係に悩むママは少なくない。間に子ども同士の関係があるだけに、より複雑だし、誰かにうかつに話せない。

 そんなとき、誰ともつながっていない別世界のシッターは、気を許せる愚痴のこぼし相手になるようで、私はただ話を聞くだけだったけど、しゃべり終えた後のママの表情は、少しすっきりしていた。

本好きなママとは、好きな作家や小説、詩の話などをよくした。数年後に詩画展会場で再会したとき、「あの頃、私は赤ちゃんを抱えて、ああいう会話に飢えていた。でも、ママ友とは詩の話なんてできなかった。あなたとのおしゃべりが、心の潤いだった」と笑っていた。


シッターは、子どもとそのママにとって「ありがたい存在」になれる仕事だ。自分が誰かにとってのありがたい、大切な存在になれる仕事は、実は、そうない。私自身、子ども達やママとの関わりに、精神的にずいぶん救われてきた。週一でもそういう仕事をしているだけで、人は自分を見失ったり、心の病気に陥ったり、道を踏み外したりしないでいられる。「無職」の人々による自殺や、犯罪の報道を聞くたびに、そう思う。

「徴兵制度」ならぬ「シッター制度」が日本で施行され、ひとりでも多くの人がシッター経験を持つ社会になるよう、今後もあちこちで書き、組織に働きかけていきたい。シッター制度の導入は、少子化、虐待、ひきこもり、不登校、ニート、犯罪、失業率、自殺、認知症など、あらゆる社会問題を予防し改善する、ひとつの要素になる。そう、信じている。

ささやかな奇跡

ときめきエッセイ 第133回 

ささやかな奇跡

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)

 

先月、このエッセイが3月で終了する事を発表したところ、たくさんの方々からメールを頂いた。読みながら、連載を始めてからのこの十年の間に私の人生が大きく変わっていったように、読者の方々の人生にもさまざまな変化があったことを噛みしめている。

十年前は息子3人を育てる主婦だった方が、息子達が巣立ち、今は夫婦だけの暮らしだ。「山のような洗濯物、10キロの米袋、ずんどうでつくった豚汁が、今はただただ懐かしく愛おしいです」と書いている。

私も、いつか子ども達が巣立ったら、今のこの、にぎやかすぎるリビングの隅に置いた仕事机に向かい、あまり意味のない耳栓をしながらルポやエッセイ、詩を書いた日々を懐かしく愛おしむのだろうか。

 

先週、心底驚くことがあった。小3の長女が、学校から帰宅するなり、興奮して叫んだのだ。

「聞いて聞いてっ!!今日ね、全校朝会で、校長先生がママが書いた『師走の大宮駅』っていう詩を紹介したんだよっ!!」

その詩は、人権団体が月二回発行する新聞から頂いている詩の連載で、昨年の暮れに発表したものだ。まさか、娘が通う小学校の校長先生がその新聞での連載を読んでいるとは夢にも思わず、のけぞるほど驚いた。

「校長先生が3月の『学校便り』に詩を載せるって言ってたよ」という娘の言葉に、事前に発行元の許可をとっておいたほうが無難だなと思い、担任の先生にそのむね手紙を書いたら、校長先生から丁寧な返事が来た。

毎月、楽しみに読んでいる詩の連載の作者が、実は児童の保護者だったと知ってどれほど驚いたか、これまでに掲載された数々の詩に、どのように共感してきたかなどが綴られていた。うれしかった。

これまでも、見知らぬ読者の方が、主人や私のHPで詩画展の開催情報を知り、会場で知り合うことは何度もあった。でも、こんな日常の中で見知っている方と、実は詩を通じて心が響きあっていたなんて、本当にまぁ、世界はなんて狭いのだろう。

こんな、ささやかな「奇跡」に出逢うたびに、私は噛みしめずにはいられない。この混沌とした世界に、生きていることの愛おしさを。

連載十年目を迎えて

ときめきエッセイ 第132回 

 

連載十年目を迎えて

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)

 

平成27年になった。平成17年から始まった当エッセイも、もうすぐ満十年になる。これまでにも幾つかの雑誌でエッセイや詩の連載の仕事を頂いてきたが、短いものは1年、長くても5年だったので、当エッセイはダントツで最長の連載である。

ここでは、十年前の、まだ母になる前の私が、9歳と6歳の2児の母である現在に至るまでの、日々のさまざまなエピソードや、その時々に抱いた想いをつづってきた。私自身の貴重な「記録」である。

育児は煮詰まることも多い。ギャーギャーうるさい子ども達と狭い家の中にいても、発信する場を与えられていたことで、どれほど精神的に救われたことだろう。当エッセイを読んでくれた方々との、あたたかい出逢いもたくさんあった。改めて、十年もの長い歳月に渡って、この場を与え続けてくれたファミリー・サポートに感謝したい。

残念ながら、当エッセイは今年の3月を持って終了することになった。あと少しだけ、おつきあい頂きたいと思う。

先日、帰省したさい、久しぶりに古いアルバムをめくったら、十歳の私と母が、二人で写っている写真があった。写真の中の黒髪の若い母は、今の私とちょうど同い年である。

十歳の私にとって、専業主婦の母は母以外の何者でもなかった。母は生まれたときから私達の母だったくらいに思っていて、母に子どもの頃があったことすら信じられなかった。でも実際には当時の母は、母であると同時に「一個人」でもあったのだ。今の私がそうだから。私なんて、「一個人」としての「私」が未だに半分以上を占めている気がする。

今、食堂で宿題をしている9歳の長女にとって、私は、どういう存在なんだろうと思う。「ママは、私と妹のママだけじゃない」ことを娘はとっくに感じていて、「一個人」としての「私」の存在にも、とっくに気づいているのかもしれない。それが子どもにとって、いいことなのかどうかの答えは、人によって違ってくるだろう。いずれにしても、子どもに淋しい思いをさせたくないのは、すべての母親共通の願いだと思う。

私も。

義父母との旅

ときめきエッセイ 第131回

義父母との旅

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)


  義父母は、今時のシルバーとは異なり、外食や旅行、習い事や趣味を楽しむといった「レジャー」に関心がない。夫が「お金出すから、二人で旅行でもしたら」と勧めても、「いいよ、もったいない」と取り合わない。二人で近所を散歩したり、スーパーで食材を買ったり、時々、掃除のアルバイトをしたり、孫の相手をする日々で満足できる性分なのだ。
  それはそれで幸せだとも思うが、まだまだ元気な今のうちに、少しは贅沢もしてほしいという思いが私達にはある。なので先月、半ば強引に秋の旅行に連れ出した。

  まずは車で群馬に向かい、群馬の桐生駅~栃木の間藤駅を結ぶ「わたらせ渓谷鉄道」、通称「わてつ」に約2時間乗車した。渡良瀬川が流れる渓谷沿いを走るローカル線で、車窓の美しさが全国的に知られている。乗車したときは、ちょうど午後の穏やかな陽ざしがあたって、山の紅葉も川の水面もまぶしく輝いていた。窓際に座った義父が車窓を眺めがら、「きれいだなぁ」とぽつりと言った。いつもテレビを見ながら文句を言うのが趣味である義父の、その素直なつぶやきが心にしみた。
  車内で義母はいつものごとく、向いの席の老婆や離れた席の子連れの母親にバナナやお菓子をあげていた。結婚当初は、義母のそういった「こてこての下町のおばちゃん」的行動が少し恥ずかしかったが、あれから十年、世話好きで情の深い義母にどれだけ助けられてきたかを実感している今は、そうでもない。こういうおばちゃんが地域にひとりいるだけで、救われる人が大勢いることを、今の私は知っている。

  わてつ沿線の「星野富弘美術館」、「足尾銅山」、「高津戸峡」、「小平鍾乳洞」、どこも見応えのある観光地だった。宿泊した温泉旅館「神梅館」もよかった。私の親は旅行好きな分、けっこう注文も多いタイプだが、義父母は逆で、ひとつひとつに「すごいねぇ」「おいしいねぇ」「温泉が最高」「贅沢だねぇ」と喜んでいた。
  翌日の夜、帰路へと向かう車の中で、「楽しかったよ。ありがとね、本当に」と礼を言われ、うれしかった。来年も半ば強引に、どこかへ連れて行きたいと思う。義父母が、まだまだ元気なうちに。

親が元気なうちに

ときめきエッセイ 第130回

親が元気なうちに

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)


  「親孝行、したいときには親はなし」とよく言うが、ただ生きているうちにすればよいのではなく、「元気なうちに」してこそだと思う。「そのうち、そのうち」と思いながら、日々の忙しさに追われて先伸ばしにしているうちに、あっという間に親は年をとる。そして、ある日突然、病気が判明する。私の父のように。

  親がもう長くは生きられないとわかってから、おいしいものをごちそうしたり、あちこち旅行に連れていったりしても、親も子どもも、もう、心から楽しむことはできない。

  父がまだまだ元気で強かった頃に、父が喜ぶことをなにもしてあげられなかった悔いが、この1年の間、ずっと私の心の奥に澱のように沈殿している。癌が再発してから、父は私に会いたがらなかった。しょっちゅう怒鳴りあいの大喧嘩をしていた、そりのあわない娘に、自分の弱い姿を見せたくなかったのかもしれない。急に、私にやさしくされたくなかったのかもしれない。私が病気の父に優しく接するほど、父は自分がもう長くはないことを切実に噛みしめることになっただろう。

  結局、父が元気だった頃はなにもできず、病気になってから私が父にしたのは、離れた場所から数回、お金を送ることだけだった。でも、それも父が喜んだとは思えない。むしろ、「私に無理をさせて悪い」と、かえって苦しめただけのような気もする。お金だって、親が元気なうちにあげなければ、意味がないのだ。もう長くは生きられない状況で、どんなに大金をもらったところで、本人はむなしいだけだろう。

でも、どんなに悔いても、父はもういない。ならば、父にできずじまいだったことを、これからは夫の両親(と田舎の母)にすることで、少しでも悔いの念を薄めたい。自己満足したい。幸い、夫の両親はまだまだ元気だ。夫とあれこれ考えた結果、ひとまず、義父母と泊りがけの家族旅行に行くことにした。今、さっそく行先を考えている。

すれちがう少女

ときめきエッセイ 第129回 

すれちがう少女

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)

 

 日中、駅へと向かう道で、時々すれちがう少女がいる。年は十代半ばくらいで、いつもリュックを背負い、ひとりで電車通学しているようだ。ダウン症の彼女とすれちがうたびに、「ひとりで大丈夫かな」「かわいいシャツを着ていたな」とかあれこれ思うのだが、声をかけたことはない。

これまでに、近所の顔見知りの子や我が子の同級生などに道で会ったときに「こんにちは」と笑顔で挨拶しても、怪訝な顔をされたことが何度もあった。「知らない大人に声をかけられる=不審者かもしれないから気をつける」的な教育の副作用だろうか。ゆえに私も、私をよく知る数人の子ども達にしか声をかけなくなってしまった。

先日、帰りの電車の中で、偶然、彼女といっしょになった。降りるときに車掌さんに手を振り、車掌さんも笑顔で答えていた。「車掌さんと仲良しなんだなぁ」と思いながら、私も彼女につづいて電車を降りる。駅の改札につくと、今度は駅員さんから「おかえりぃ」と声をかけられ、「ただいまぁ」と答えていた。

改札をでると、ちょうど駅に着いた70代くらいの女性から、「○○ちゃん、髪切った?かわいいね」と声をかけられ、「うん」と照れて答えていた。さらに商店街をとおると、駐輪場のおじさんが、そのあとは八百屋のおばちゃんが、店先で仕事をしながら、ごく自然に彼女に「おかえりぃ」、「暑いねぇ」などと声をかけ、彼女も「ただいまぁ」と答えていた。その様子を、数m後ろを歩きながら、私は驚きと共に見つめていた。

いつも一瞬のすれちがいだったから、彼女がこんなに地域のたくさんの大人達に声をかけられ、見守られていることを知らなかった。「ただいまぁ」と答える彼女の、穏やかな表情を見たことがなかった。この地域で、こんなにたくさんの大人達に親しまれ、そして地域の大人達を信頼している子どもが、いったいどれだけいるだろう。

私も、彼女を見守る地域の大人のひとりになりたい。その温かい輪に入れてもらいたい。そう強く思った。今度すれちがうときは、勇気を出して笑顔で彼女に「おかえり」と声をかけてみよう。彼女は私を怪しむだろうか。それとも、「時々すれちがうおばさん」と覚えていてくれて、「ただいまぁ」と、あの穏やかな表情で私を受け入れてくれるだろうか。

長女の学習机デビュー

ときめきエッセイ 第128回 

 

長女の学習机デビュー

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)

 

 これまで、置き場所がなくてずっと買わずに引きのばしてきた長女の学習机を、先日ついに買った。2年生までは食堂やリビングで宿題をしていたが、3年生ともなると宿題にかかる時間も長く、勉強道具やおもちゃ箱には入れたくない私物も増えてくる。結局、一念発起して半ば物置きになっている4畳半を一日がかりで片付けることにした。大量のモノを処分し、なんとか窓際に学習机を一台、置くスペースができた。

 そして、長女の学習机がやってきた。落ち着いた渋い木目調で、どっしりしている。ぞうきんで引き出しの中まできれいに拭き終わると、娘は、いそいそと勉強道具を上棚に並べ、その後、大小あわせて全部で6つもある引きだしのどこになにをいれるかを、うきうきと考え始めた。「やっぱり宝物はこっちにしよ」「この引きだしは文房具だけにしよ」などと独り言を言いながら、そのたびにモノをいれなおしている。口出しせずに娘に任せていたら、夜になっても、まだやっていた。

 学習机は、子どもにとっての初めての「自分の城」である。棚には勉強道具だけでなく、お気にいりのモノをディスプレイして自分の空間を演出する楽しさがある。そして、たくさんの引き出しは、自らつくる「秩序」であり、初めて持つ「秘密の居場所」でもある。

 ようやく娘が寝たあと、学習机をのぞいてみた。上棚には勉強道具のほか、自作の工作品が並んでいる。デスクマットには、時間割表、給食の献立表、写真やカードなどがはさまっている。引き出しの中ものぞきたかったが、やめた。私自身、母親に机の引き出しを開けられるのが我慢ならない子どもだったから。

 その後、食堂で四葉のクローバーの便箋に娘への短い手紙を書き、デスクマットの片隅にそっといれた。娘がそれをぬかなければ、今後、机に向かうたびに、嫌でもその手紙が目につくだろう。読み返すたびに、私の娘への想いが少しでも伝わってくれればいいなと思う。