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子育てエッセイ

親が元気なうちに

ときめきエッセイ 第130回

親が元気なうちに

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)


  「親孝行、したいときには親はなし」とよく言うが、ただ生きているうちにすればよいのではなく、「元気なうちに」してこそだと思う。「そのうち、そのうち」と思いながら、日々の忙しさに追われて先伸ばしにしているうちに、あっという間に親は年をとる。そして、ある日突然、病気が判明する。私の父のように。

  親がもう長くは生きられないとわかってから、おいしいものをごちそうしたり、あちこち旅行に連れていったりしても、親も子どもも、もう、心から楽しむことはできない。

  父がまだまだ元気で強かった頃に、父が喜ぶことをなにもしてあげられなかった悔いが、この1年の間、ずっと私の心の奥に澱のように沈殿している。癌が再発してから、父は私に会いたがらなかった。しょっちゅう怒鳴りあいの大喧嘩をしていた、そりのあわない娘に、自分の弱い姿を見せたくなかったのかもしれない。急に、私にやさしくされたくなかったのかもしれない。私が病気の父に優しく接するほど、父は自分がもう長くはないことを切実に噛みしめることになっただろう。

  結局、父が元気だった頃はなにもできず、病気になってから私が父にしたのは、離れた場所から数回、お金を送ることだけだった。でも、それも父が喜んだとは思えない。むしろ、「私に無理をさせて悪い」と、かえって苦しめただけのような気もする。お金だって、親が元気なうちにあげなければ、意味がないのだ。もう長くは生きられない状況で、どんなに大金をもらったところで、本人はむなしいだけだろう。

でも、どんなに悔いても、父はもういない。ならば、父にできずじまいだったことを、これからは夫の両親(と田舎の母)にすることで、少しでも悔いの念を薄めたい。自己満足したい。幸い、夫の両親はまだまだ元気だ。夫とあれこれ考えた結果、ひとまず、義父母と泊りがけの家族旅行に行くことにした。今、さっそく行先を考えている。

すれちがう少女

ときめきエッセイ 第129回 

すれちがう少女

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)

 

 日中、駅へと向かう道で、時々すれちがう少女がいる。年は十代半ばくらいで、いつもリュックを背負い、ひとりで電車通学しているようだ。ダウン症の彼女とすれちがうたびに、「ひとりで大丈夫かな」「かわいいシャツを着ていたな」とかあれこれ思うのだが、声をかけたことはない。

これまでに、近所の顔見知りの子や我が子の同級生などに道で会ったときに「こんにちは」と笑顔で挨拶しても、怪訝な顔をされたことが何度もあった。「知らない大人に声をかけられる=不審者かもしれないから気をつける」的な教育の副作用だろうか。ゆえに私も、私をよく知る数人の子ども達にしか声をかけなくなってしまった。

先日、帰りの電車の中で、偶然、彼女といっしょになった。降りるときに車掌さんに手を振り、車掌さんも笑顔で答えていた。「車掌さんと仲良しなんだなぁ」と思いながら、私も彼女につづいて電車を降りる。駅の改札につくと、今度は駅員さんから「おかえりぃ」と声をかけられ、「ただいまぁ」と答えていた。

改札をでると、ちょうど駅に着いた70代くらいの女性から、「○○ちゃん、髪切った?かわいいね」と声をかけられ、「うん」と照れて答えていた。さらに商店街をとおると、駐輪場のおじさんが、そのあとは八百屋のおばちゃんが、店先で仕事をしながら、ごく自然に彼女に「おかえりぃ」、「暑いねぇ」などと声をかけ、彼女も「ただいまぁ」と答えていた。その様子を、数m後ろを歩きながら、私は驚きと共に見つめていた。

いつも一瞬のすれちがいだったから、彼女がこんなに地域のたくさんの大人達に声をかけられ、見守られていることを知らなかった。「ただいまぁ」と答える彼女の、穏やかな表情を見たことがなかった。この地域で、こんなにたくさんの大人達に親しまれ、そして地域の大人達を信頼している子どもが、いったいどれだけいるだろう。

私も、彼女を見守る地域の大人のひとりになりたい。その温かい輪に入れてもらいたい。そう強く思った。今度すれちがうときは、勇気を出して笑顔で彼女に「おかえり」と声をかけてみよう。彼女は私を怪しむだろうか。それとも、「時々すれちがうおばさん」と覚えていてくれて、「ただいまぁ」と、あの穏やかな表情で私を受け入れてくれるだろうか。

長女の学習机デビュー

ときめきエッセイ 第128回 

 

長女の学習机デビュー

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)

 

 これまで、置き場所がなくてずっと買わずに引きのばしてきた長女の学習机を、先日ついに買った。2年生までは食堂やリビングで宿題をしていたが、3年生ともなると宿題にかかる時間も長く、勉強道具やおもちゃ箱には入れたくない私物も増えてくる。結局、一念発起して半ば物置きになっている4畳半を一日がかりで片付けることにした。大量のモノを処分し、なんとか窓際に学習机を一台、置くスペースができた。

 そして、長女の学習机がやってきた。落ち着いた渋い木目調で、どっしりしている。ぞうきんで引き出しの中まできれいに拭き終わると、娘は、いそいそと勉強道具を上棚に並べ、その後、大小あわせて全部で6つもある引きだしのどこになにをいれるかを、うきうきと考え始めた。「やっぱり宝物はこっちにしよ」「この引きだしは文房具だけにしよ」などと独り言を言いながら、そのたびにモノをいれなおしている。口出しせずに娘に任せていたら、夜になっても、まだやっていた。

 学習机は、子どもにとっての初めての「自分の城」である。棚には勉強道具だけでなく、お気にいりのモノをディスプレイして自分の空間を演出する楽しさがある。そして、たくさんの引き出しは、自らつくる「秩序」であり、初めて持つ「秘密の居場所」でもある。

 ようやく娘が寝たあと、学習机をのぞいてみた。上棚には勉強道具のほか、自作の工作品が並んでいる。デスクマットには、時間割表、給食の献立表、写真やカードなどがはさまっている。引き出しの中ものぞきたかったが、やめた。私自身、母親に机の引き出しを開けられるのが我慢ならない子どもだったから。

 その後、食堂で四葉のクローバーの便箋に娘への短い手紙を書き、デスクマットの片隅にそっといれた。娘がそれをぬかなければ、今後、机に向かうたびに、嫌でもその手紙が目につくだろう。読み返すたびに、私の娘への想いが少しでも伝わってくれればいいなと思う。

父の納骨とソウルジュエリー

ときめきエッセイ 第127回

父の納骨とソウルジュエリー

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)


  先月末は、父の納骨だった。納骨の前に、必ずやっておかなければならないことがあった。ソウルジュエリーに、父の遺骨のかけらを納める作業である。母と私に、オープンハートのシルバーのネックレスを二つ買ってある。オープンハートの裏側にある直径3ミリほどのネジを専用ドライバーで開け、空洞になっている内部に遺骨のかけらをつめるのだ。

  納骨の前日、伊豆の実家に着き、子ども達を寝かしつけた後の静かな夜、夫と私と母で、そっと父の骨壺を開けた。一番上に使い古されたメガネが乗っていて、「あぁ、パパだ」と思った。怖くはなく、懐かしさがこみあげる。メガネのそばにあった小さな骨のかけらをひとつつまんで、白い紙の上で、指先でさらに細かくした。相当小さくしないとネジ穴を通らない。できるだけいっぱい詰めようと四苦八苦する夫と私を、母はそばで見つめていた。

  最後に、専用のネジ止め接着剤でネジを締めて、1時間ほどで 作 業 は 終 わ っ た 。 白 い 紙 の 上 に 残 っ た 父 の 遺 骨 を 骨 壺に戻し、ネックレスのひとつを母に渡したら、すぐに首にかけていた。これで、納骨後も父と母はずっといっしょだ。

  ふりかえれば、私が「親も喜んでくれるだろう」と思ってしたことが、実際はそうでなく、結局大喧嘩になったことが、これまでに多々あった。昨年の春、親の住む下田市の村上書店に詩画集を委託販売してもらった理由のひとつには、老親も娘夫婦の詩画集が書店の店頭に並んでいるのを見たらうれしいだろうと思う気持ちもあってのことだったが、親は喜ぶどころか嫌がり、結局、それが生前の父との最後の大喧嘩になった。

 でも、今回のソウルジュエリーのプレゼントは、母も、そして亡父も素直に喜んでくれていると思う。それにしても、これを村上書店で委託販売してもらった詩画集の売上で買ったというところが、なんとも皮肉というかなん というか、人生はうまくいかないものである。

娘の初ピアノ発表会

ときめきエッセイ 第126回

娘の初ピアノ発表会

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)


 

   先月末、長女の初めてのピアノの発表会があった。習い始めて早3年、今年は本人も出たいというので、初挑戦することになった。曲は、「アヴェマリア」(作曲グノー)である。

  当日、ベージュのドレスを着て、たったひとりでグランドピアノに向かい、美しく切ない旋律のアヴェマリアを演奏する娘は、(親バカだが)とても可憐で愛おしかった。毎日、見ている娘のあどけない横顔を見つめながら、ついこの前まで、なにもできない赤ちゃんだったのに、たった8年で、もうこんなに複雑で難しいことができるようになるなんて、子どもってすごいなぁと心底思う。もう百回以上聴いている娘の演奏に、そしてひたむきに演奏する娘の姿に、泣きそうになった。

  数回まちがえつつも、なんとか止まらずに、娘は無事に演奏を終えた。立ち上がり、舞台の前に出て、家で何度も練習した通り、美しく丁寧におじぎをする娘の姿に、「3年間、続けてきてよかったなぁ」と心底思った。習い始めて最初の2年は、練習嫌いな娘と家で決まって大バトルになり、娘は泣きだし、「もう、やめる」と癇癪を起した。私も「ピアノの練習がなければ我が家はどんなに平和だろう...」と思いつつ、「とにかく3年だけ、がんばってみる」を信条に、たくさんの壁を乗り越えてきた。

  そして、3年目に入ってしばらくした頃、「ヘ音記号」の壁を娘はいつのまにか乗り越え、少しづつピアノを弾くことを楽しむようになっていった。学校の音楽朝会で歌う曲を、ピアノで弾きたがるようになった。それこそが、私が求めることだ。自ら音楽を奏でる喜びのある人生を、私は娘に授けたかったのだ。

  「いつか娘のピアノに寄り添われて、自作の詩を朗読したい」。3年前、娘がピアノ教室に通い始めたときに、ここに書いた夢が実現する日も、そう遠くないのかもしれない。その頃には娘のほうが立場が上で、「ママ、そこの朗読、もっとピアノにのせて」とか、娘に厳しく指示を出されているのかもしれない。そんなことを想像するだけで、わくわくする。

調理ボランティアへの参加

ときめきエッセイ 第125回 


調理ボランティアへの参加

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)


 結婚後ずっと、家族のために日常の料理のレパートリーを増やそうと思い続けてきたが、なかなか増えない。忙しさを理由に週3は「焼き魚」に逃げている。これまで料理教室にも通ったし、料理の本もあきれるほど買っている。けれど、レセピ通りにさまざまな食材や調味料をすべてそろえて、新しい料理に挑戦することが、なぜか私には非常に難しい。

 

結果的に我が家の夕飯は、おなじみのレパートリーがぐるぐる回る。当然、買う食材もパターン化してくる。時々、ご近所からウド、セリ、フキなど、日頃なじみのない野菜を頂いても、どうしていいかわからず、恥をしのんで義母に聞いている。内心、あきれられている気もするが、田舎の母に電話で聞いて、けんかになるよりマシである。
 

今年は結婚十周年でもあり、一念発起して3月から地域の社会福祉協議会が取り組んでいる、「独居高齢者対象の会食サービス事業」の調理ボランティアに参加させて頂くことになった。これは、毎月1回、地域のひとり暮らしの高齢者を公民館に招き、昼食をともに食べながら、おしゃべりを楽しみ、食後はその日のゲストの楽器演奏や講話等を聴いたりするものだ。ひとり暮らしの高齢者同士の交流だけでなく、生活状況や体調の変化の把握なども兼ねており、全国の市町村で実施されている。
 

調理ボランティア約15名は、当日の朝8時半から、公民館内の調理実習室で、約50人分の昼食(メイン、副菜数種、ご飯、汁物、デザート)を用意する。洗い物や配膳作業をしながら、ベテラン主婦の調理風景を見ているだけで楽しい。毎回、高野豆腐、切り干し大根、桜えびなど、恥ずかしながら使ったことがない食材に出会う。聞くと、いろいろ教えてくれるのもうれしい。
 

 高齢者の方々の「おいしい」「ごちそうさま」「毎月の楽しみ」といった感謝の言葉も、料理教室とはまた違った充実感がある。まだ始めたばかりだが、少しでもレパートリーが増えていけばいいなと思っている。

転勤と家族の絆

ときめきエッセイ 第124回 

 

転勤と家族の絆

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)

 

 春は人事異動の季節である。初夏になる頃、御主人の仕事で地方や海外へ転勤していった友人から、新住所を知らせる葉書がくる。あぁ、無事に引っ越して、家族そろっての新生活が始まったんだなぁと思う。

転勤の辞令がでたとき、家族でついていくか悩んでいた友人も多かった。自分の仕事、子どもの学校、持ち家のこと、老親のこと、知人ひとりいない慣れない土地で生活する不安など、悩む要素はたくさんある。結局、単身赴任になった家もあるし、数か月後、「やはり家族そろって暮らしたいから」と引っ越していった家もある。

私自身、転勤族の子どもで、小学校から高校までで3回の海外転勤をした。当時の父の会社は、転勤は原則、夫婦同伴だったから、母は悩む暇もなく、辞令が出た翌日から荷造りに追われていた。

転勤先の海外(南米)では、当初は言葉も全然通じず、東洋人というだけで馬鹿にされたり、差別的な扱いを受けるなど、嫌な思いや惨めな思いを噛みしめることもよくあった。その上、停電、断水はしょっちゅう、数回も泥棒に入られるなど、さんざんな思いもした。薄暗い台所で、ひとりで泣いている母を見たこともある。

でも、その分、「家族」の絆は深まったような気もする。同じ場所にずっと住み続けていたら、味わわずにすんだであろう惨めさも孤独感も、体験せずにすんだであろう苦労も、ふりかえれば、親子や兄弟の距離を狭めたと思う。私は父とは子どもの頃からそりがあわなかったけれど、子どもの頃の「日常」をふりえったとき、その情景に父は普通に存在している。居間でタバコを吸いながら新聞や本を読み、植木の手入れをし、休日は家族を乗せて、大好きな車を運転する父がいる。

家族(親子)が共に暮らせる歳月は、実は意外と短い。私もそうだったが、高校卒業を機に親許を離れる場合、たったの18年しかない。父も姉もいなくなってしまった今、子どもの頃の家族そろった日常の情景が、言葉にできないほどのいとしさと切なさで、胸にわきあがってくる。

2歳と3か月の兄妹ちゃんのシッティングにて

2歳と3か月の兄妹ちゃんのシッティングにて

 

バンビーノ・クラブ ベビーシッター

森田 公子

 

2歳と3か月の兄妹ちゃんのシッティングでのことです。

お母様より「ベビーシッターにまつわる悲しい事件の後、

バンビーノクラブさんは事前にプロフィールを頂け、安心です」とお聞きしました。

 

赤ちゃんが生まれ不安定だったのか、2歳のお兄ちゃん、

私と2人になると「メラメラ」と音を立てそうな位、お互いの探り合いの緊張が走りました。

 

しばらく遊んでいましたが、15分程経過した頃、ビーズの入った缶をひっくり返してくれました。

私は「うわ~ビーズさんと同じに転がっちゃう~」と床に転がり困り顔。

お兄ちゃん大ウケで、緊張の糸はほぐれました。

すると「そのおひざ少し借りてもいいですか」とでも言いそうな感じで

お尻から近づいてくるお兄ちゃんの可愛らしさ!!

意気投合でたくさん遊べました。

 

帰り際、お母様に「お行儀悪い遊びをさせてしまったかもしれません、すみません」と謝りました。

お母様は「今日は絶えず笑い声がして安心して休めました。今までこのイタズラができなかったんでしょう。

この人ならどんな反応をしてくれるかなと思ったのでしょう。ありがとう」

 

早目にお父様が帰られたので、先程2人で作ったスケッチブックの絵を見せると

「good job!」

 

笑顔いっぱいのお兄ちゃん、もちろん私も嬉しかったです。

 

創立20周年によせて

ときめきエッセイ 第123回 

 

創立20周年によせて

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)

 

2月末、株式会社ファミリーサポートの創立20周年記念パーティーに出席した。会場は結婚式場としても人気の、格調高い「学士会館」である。円卓に着席し、おいしいビュッフェを頂きながら、来賓の方々の祝辞と激励、中舘代表のプレゼンテーションに耳を傾け、美しいピアノ演奏と声楽を味わい、長期勤続者の表彰式、全員集合してのにぎやかな記念撮影と、学術&芸術&娯楽が融合した楽しいひとときだった。

パワーポイントを使って会社の歩みやイタリアの幼児教育の取組み等について発表する中舘氏を見つめながら、12年前、新宿の旧オフィスにベビーシッターの面接に行き、初めて中舘氏に会った時のことを懐かしく思い出していた。一般的な「女社長」のイメージとは異なり、「上品で堅実で、にこやかな奥様」という雰囲気に、「こんな女社長もいるんだなぁ」と内心、驚いたものだ。

面接から数日後、(失礼ながら)中舘氏についてネットで検索してさらに驚いた。東大を出て23歳の若さで結婚し、28歳で既に3児の母になり、39歳までご主人の仕事で、家族で地方転勤を重ねていたという経歴に、である。当時、多くの高学歴女子はキャリア志向ゆえに独身か、たとえ結婚してもDINKS(共稼ぎで子ども無し)が多かっただけに、改めて「こういう女性もいるのかぁ…」と思ったものだ。

でも、今になって思う。結婚後16年間、妻・母としての人生を最優先してきた人だからこそ、「子どもの教育」と「女性が母親になっても、一個人として自分の人生も大切にしながら生きてゆける社会づくり」への思いが人一倍深くて、だからこそ保育・教育事業がライフワークになったのかなと。

昔も今も、多くの母親は噛みしめている。近くに頼れる両親もなく、どこに行くにも子どもを抱えて、自分の時間が持てず、「一個人」としての自分自身が、日々ひからびていくような思いを。しょっちゅう(しかも当日…)、熱を出す子どもに、外に働きに出る勇気も出ず、仕事で家にいない夫の協力も期待できず、結局、仕事も趣味も自分の時間も、あらゆることを「母親なんだから、しょうがない…」とあきらめる癖がついてゆく哀しさを。

私も母になって以降、それまで毎月引き受けていた地方取材の仕事を降りることになった。収入が激減したこと以上に、独りでさいはての地を旅する機会がなくなり、旅先ならでの抒情や孤独を噛みしめるなかで、詩が降りてくるひとときも失ったことが哀しかった。

経済面や信頼面の問題もあり、シッターをよく活用している子育て家庭は、まだまだ少数派だと思う。今後は行政による支援や助成制度なども進んで、技術・知識・信頼のあるシッティングサービスがより一般化し、「女性が母親になっても、あきらめ癖がつかない社会づくり」が進むよう、私も微力ながら働きかけてゆきたい。

東北大学の「かたりつぎ」

ときめきエッセイ 第122

 

東北大学の「かたりつぎ」

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)

 

3月5日、東北大学災害科学国際研究所が主催する「かたりつぎ」が仙台で開催された。学術と芸術が融合した大イベントで、前半は研究所による講演や研究報告、仙台南高校の合唱、住職の法話、後半は「詩の朗読・音楽・絵のコラボ」で、「東北の今」を伝える構成である。

東日本大震災で被災した7名の方々が取材で語った壮絶な被災体験やその後の生活、心情、行政への不満、要望、伝え残したい教訓などを、7編の詩の形式にまとめたものを、女優の竹下景子さんが巨大水彩画「南三陸の黄金」を背景に、ピアノ・オーボエの生演奏と共に朗読された。集まった1200人の観衆がそれぞれの想いを胸に耳を傾けていた。

縁あって、この被災した方々の語った内容を、詩の形式にまとめるという「朗読台本執筆」の仕事を今回させて頂いたのだが、録音音声を繰り返し聴いて文章化してゆく作業の中で、私自身あらゆることを思った。

 

震災以降、実姉と実父を癌で立て続けに失い、ふとした瞬間に押し寄せる無念さと後悔、喪失感に怯える日々だったが、この仕事をつうじて、突然、震災や津波で肉親を奪われた被災地の方々の心情を思ったら、姉も父も、癌センターで最先端の癌治療を受けられたこと、あたたかいベッドの上で家族や医師に見守られて旅立てたこと、そして納得のいく形で葬儀や法事をあげられただけでも幸せだったのだと、少しずつ思えるようになっていった。本人、そして遺族にとっても、もっともつらいのは「行方不明」のままでいることだ。

きっと私だけでなく、震災以降に肉親を亡くした多くの人々が、同じような思いを胸に、深い喪失感からはいあがったのではと思う。被災体験やその後の生活をかたりついでゆくことは、今後の災害時にそなえた防災面での重要性だけじゃない。今、生きている者は、過去を悔み続けるのではなく、今後、同じ過ちを繰り返さぬよう、未来のために「動く」大切さを教えてくれる。当たり前に過ぎてゆく日常のいとおしさに気づかせ、日々を慈しんで生きることの意義を感じさせてくれる。

私も、歳月と共に変化してゆく被災者・被災地の現状や心情を、詩という形式で発信し続けていくことで、この「かたりつぐ活動」に関わり続けてゆきたい。