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子育てエッセイ

父の納骨とソウルジュエリー

ときめきエッセイ 第127回

父の納骨とソウルジュエリー

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)


  先月末は、父の納骨だった。納骨の前に、必ずやっておかなければならないことがあった。ソウルジュエリーに、父の遺骨のかけらを納める作業である。母と私に、オープンハートのシルバーのネックレスを二つ買ってある。オープンハートの裏側にある直径3ミリほどのネジを専用ドライバーで開け、空洞になっている内部に遺骨のかけらをつめるのだ。

  納骨の前日、伊豆の実家に着き、子ども達を寝かしつけた後の静かな夜、夫と私と母で、そっと父の骨壺を開けた。一番上に使い古されたメガネが乗っていて、「あぁ、パパだ」と思った。怖くはなく、懐かしさがこみあげる。メガネのそばにあった小さな骨のかけらをひとつつまんで、白い紙の上で、指先でさらに細かくした。相当小さくしないとネジ穴を通らない。できるだけいっぱい詰めようと四苦八苦する夫と私を、母はそばで見つめていた。

  最後に、専用のネジ止め接着剤でネジを締めて、1時間ほどで 作 業 は 終 わ っ た 。 白 い 紙 の 上 に 残 っ た 父 の 遺 骨 を 骨 壺に戻し、ネックレスのひとつを母に渡したら、すぐに首にかけていた。これで、納骨後も父と母はずっといっしょだ。

  ふりかえれば、私が「親も喜んでくれるだろう」と思ってしたことが、実際はそうでなく、結局大喧嘩になったことが、これまでに多々あった。昨年の春、親の住む下田市の村上書店に詩画集を委託販売してもらった理由のひとつには、老親も娘夫婦の詩画集が書店の店頭に並んでいるのを見たらうれしいだろうと思う気持ちもあってのことだったが、親は喜ぶどころか嫌がり、結局、それが生前の父との最後の大喧嘩になった。

 でも、今回のソウルジュエリーのプレゼントは、母も、そして亡父も素直に喜んでくれていると思う。それにしても、これを村上書店で委託販売してもらった詩画集の売上で買ったというところが、なんとも皮肉というかなん というか、人生はうまくいかないものである。

娘の初ピアノ発表会

ときめきエッセイ 第126回

娘の初ピアノ発表会

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)


 

   先月末、長女の初めてのピアノの発表会があった。習い始めて早3年、今年は本人も出たいというので、初挑戦することになった。曲は、「アヴェマリア」(作曲グノー)である。

  当日、ベージュのドレスを着て、たったひとりでグランドピアノに向かい、美しく切ない旋律のアヴェマリアを演奏する娘は、(親バカだが)とても可憐で愛おしかった。毎日、見ている娘のあどけない横顔を見つめながら、ついこの前まで、なにもできない赤ちゃんだったのに、たった8年で、もうこんなに複雑で難しいことができるようになるなんて、子どもってすごいなぁと心底思う。もう百回以上聴いている娘の演奏に、そしてひたむきに演奏する娘の姿に、泣きそうになった。

  数回まちがえつつも、なんとか止まらずに、娘は無事に演奏を終えた。立ち上がり、舞台の前に出て、家で何度も練習した通り、美しく丁寧におじぎをする娘の姿に、「3年間、続けてきてよかったなぁ」と心底思った。習い始めて最初の2年は、練習嫌いな娘と家で決まって大バトルになり、娘は泣きだし、「もう、やめる」と癇癪を起した。私も「ピアノの練習がなければ我が家はどんなに平和だろう...」と思いつつ、「とにかく3年だけ、がんばってみる」を信条に、たくさんの壁を乗り越えてきた。

  そして、3年目に入ってしばらくした頃、「ヘ音記号」の壁を娘はいつのまにか乗り越え、少しづつピアノを弾くことを楽しむようになっていった。学校の音楽朝会で歌う曲を、ピアノで弾きたがるようになった。それこそが、私が求めることだ。自ら音楽を奏でる喜びのある人生を、私は娘に授けたかったのだ。

  「いつか娘のピアノに寄り添われて、自作の詩を朗読したい」。3年前、娘がピアノ教室に通い始めたときに、ここに書いた夢が実現する日も、そう遠くないのかもしれない。その頃には娘のほうが立場が上で、「ママ、そこの朗読、もっとピアノにのせて」とか、娘に厳しく指示を出されているのかもしれない。そんなことを想像するだけで、わくわくする。

調理ボランティアへの参加

ときめきエッセイ 第125回 


調理ボランティアへの参加

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)


 結婚後ずっと、家族のために日常の料理のレパートリーを増やそうと思い続けてきたが、なかなか増えない。忙しさを理由に週3は「焼き魚」に逃げている。これまで料理教室にも通ったし、料理の本もあきれるほど買っている。けれど、レセピ通りにさまざまな食材や調味料をすべてそろえて、新しい料理に挑戦することが、なぜか私には非常に難しい。

 

結果的に我が家の夕飯は、おなじみのレパートリーがぐるぐる回る。当然、買う食材もパターン化してくる。時々、ご近所からウド、セリ、フキなど、日頃なじみのない野菜を頂いても、どうしていいかわからず、恥をしのんで義母に聞いている。内心、あきれられている気もするが、田舎の母に電話で聞いて、けんかになるよりマシである。
 

今年は結婚十周年でもあり、一念発起して3月から地域の社会福祉協議会が取り組んでいる、「独居高齢者対象の会食サービス事業」の調理ボランティアに参加させて頂くことになった。これは、毎月1回、地域のひとり暮らしの高齢者を公民館に招き、昼食をともに食べながら、おしゃべりを楽しみ、食後はその日のゲストの楽器演奏や講話等を聴いたりするものだ。ひとり暮らしの高齢者同士の交流だけでなく、生活状況や体調の変化の把握なども兼ねており、全国の市町村で実施されている。
 

調理ボランティア約15名は、当日の朝8時半から、公民館内の調理実習室で、約50人分の昼食(メイン、副菜数種、ご飯、汁物、デザート)を用意する。洗い物や配膳作業をしながら、ベテラン主婦の調理風景を見ているだけで楽しい。毎回、高野豆腐、切り干し大根、桜えびなど、恥ずかしながら使ったことがない食材に出会う。聞くと、いろいろ教えてくれるのもうれしい。
 

 高齢者の方々の「おいしい」「ごちそうさま」「毎月の楽しみ」といった感謝の言葉も、料理教室とはまた違った充実感がある。まだ始めたばかりだが、少しでもレパートリーが増えていけばいいなと思っている。

転勤と家族の絆

ときめきエッセイ 第124回 

 

転勤と家族の絆

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)

 

 春は人事異動の季節である。初夏になる頃、御主人の仕事で地方や海外へ転勤していった友人から、新住所を知らせる葉書がくる。あぁ、無事に引っ越して、家族そろっての新生活が始まったんだなぁと思う。

転勤の辞令がでたとき、家族でついていくか悩んでいた友人も多かった。自分の仕事、子どもの学校、持ち家のこと、老親のこと、知人ひとりいない慣れない土地で生活する不安など、悩む要素はたくさんある。結局、単身赴任になった家もあるし、数か月後、「やはり家族そろって暮らしたいから」と引っ越していった家もある。

私自身、転勤族の子どもで、小学校から高校までで3回の海外転勤をした。当時の父の会社は、転勤は原則、夫婦同伴だったから、母は悩む暇もなく、辞令が出た翌日から荷造りに追われていた。

転勤先の海外(南米)では、当初は言葉も全然通じず、東洋人というだけで馬鹿にされたり、差別的な扱いを受けるなど、嫌な思いや惨めな思いを噛みしめることもよくあった。その上、停電、断水はしょっちゅう、数回も泥棒に入られるなど、さんざんな思いもした。薄暗い台所で、ひとりで泣いている母を見たこともある。

でも、その分、「家族」の絆は深まったような気もする。同じ場所にずっと住み続けていたら、味わわずにすんだであろう惨めさも孤独感も、体験せずにすんだであろう苦労も、ふりかえれば、親子や兄弟の距離を狭めたと思う。私は父とは子どもの頃からそりがあわなかったけれど、子どもの頃の「日常」をふりえったとき、その情景に父は普通に存在している。居間でタバコを吸いながら新聞や本を読み、植木の手入れをし、休日は家族を乗せて、大好きな車を運転する父がいる。

家族(親子)が共に暮らせる歳月は、実は意外と短い。私もそうだったが、高校卒業を機に親許を離れる場合、たったの18年しかない。父も姉もいなくなってしまった今、子どもの頃の家族そろった日常の情景が、言葉にできないほどのいとしさと切なさで、胸にわきあがってくる。

2歳と3か月の兄妹ちゃんのシッティングにて

2歳と3か月の兄妹ちゃんのシッティングにて

 

バンビーノ・クラブ ベビーシッター

森田 公子

 

2歳と3か月の兄妹ちゃんのシッティングでのことです。

お母様より「ベビーシッターにまつわる悲しい事件の後、

バンビーノクラブさんは事前にプロフィールを頂け、安心です」とお聞きしました。

 

赤ちゃんが生まれ不安定だったのか、2歳のお兄ちゃん、

私と2人になると「メラメラ」と音を立てそうな位、お互いの探り合いの緊張が走りました。

 

しばらく遊んでいましたが、15分程経過した頃、ビーズの入った缶をひっくり返してくれました。

私は「うわ~ビーズさんと同じに転がっちゃう~」と床に転がり困り顔。

お兄ちゃん大ウケで、緊張の糸はほぐれました。

すると「そのおひざ少し借りてもいいですか」とでも言いそうな感じで

お尻から近づいてくるお兄ちゃんの可愛らしさ!!

意気投合でたくさん遊べました。

 

帰り際、お母様に「お行儀悪い遊びをさせてしまったかもしれません、すみません」と謝りました。

お母様は「今日は絶えず笑い声がして安心して休めました。今までこのイタズラができなかったんでしょう。

この人ならどんな反応をしてくれるかなと思ったのでしょう。ありがとう」

 

早目にお父様が帰られたので、先程2人で作ったスケッチブックの絵を見せると

「good job!」

 

笑顔いっぱいのお兄ちゃん、もちろん私も嬉しかったです。

 

創立20周年によせて

ときめきエッセイ 第123回 

 

創立20周年によせて

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)

 

2月末、株式会社ファミリーサポートの創立20周年記念パーティーに出席した。会場は結婚式場としても人気の、格調高い「学士会館」である。円卓に着席し、おいしいビュッフェを頂きながら、来賓の方々の祝辞と激励、中舘代表のプレゼンテーションに耳を傾け、美しいピアノ演奏と声楽を味わい、長期勤続者の表彰式、全員集合してのにぎやかな記念撮影と、学術&芸術&娯楽が融合した楽しいひとときだった。

パワーポイントを使って会社の歩みやイタリアの幼児教育の取組み等について発表する中舘氏を見つめながら、12年前、新宿の旧オフィスにベビーシッターの面接に行き、初めて中舘氏に会った時のことを懐かしく思い出していた。一般的な「女社長」のイメージとは異なり、「上品で堅実で、にこやかな奥様」という雰囲気に、「こんな女社長もいるんだなぁ」と内心、驚いたものだ。

面接から数日後、(失礼ながら)中舘氏についてネットで検索してさらに驚いた。東大を出て23歳の若さで結婚し、28歳で既に3児の母になり、39歳までご主人の仕事で、家族で地方転勤を重ねていたという経歴に、である。当時、多くの高学歴女子はキャリア志向ゆえに独身か、たとえ結婚してもDINKS(共稼ぎで子ども無し)が多かっただけに、改めて「こういう女性もいるのかぁ…」と思ったものだ。

でも、今になって思う。結婚後16年間、妻・母としての人生を最優先してきた人だからこそ、「子どもの教育」と「女性が母親になっても、一個人として自分の人生も大切にしながら生きてゆける社会づくり」への思いが人一倍深くて、だからこそ保育・教育事業がライフワークになったのかなと。

昔も今も、多くの母親は噛みしめている。近くに頼れる両親もなく、どこに行くにも子どもを抱えて、自分の時間が持てず、「一個人」としての自分自身が、日々ひからびていくような思いを。しょっちゅう(しかも当日…)、熱を出す子どもに、外に働きに出る勇気も出ず、仕事で家にいない夫の協力も期待できず、結局、仕事も趣味も自分の時間も、あらゆることを「母親なんだから、しょうがない…」とあきらめる癖がついてゆく哀しさを。

私も母になって以降、それまで毎月引き受けていた地方取材の仕事を降りることになった。収入が激減したこと以上に、独りでさいはての地を旅する機会がなくなり、旅先ならでの抒情や孤独を噛みしめるなかで、詩が降りてくるひとときも失ったことが哀しかった。

経済面や信頼面の問題もあり、シッターをよく活用している子育て家庭は、まだまだ少数派だと思う。今後は行政による支援や助成制度なども進んで、技術・知識・信頼のあるシッティングサービスがより一般化し、「女性が母親になっても、あきらめ癖がつかない社会づくり」が進むよう、私も微力ながら働きかけてゆきたい。

東北大学の「かたりつぎ」

ときめきエッセイ 第122

 

東北大学の「かたりつぎ」

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)

 

3月5日、東北大学災害科学国際研究所が主催する「かたりつぎ」が仙台で開催された。学術と芸術が融合した大イベントで、前半は研究所による講演や研究報告、仙台南高校の合唱、住職の法話、後半は「詩の朗読・音楽・絵のコラボ」で、「東北の今」を伝える構成である。

東日本大震災で被災した7名の方々が取材で語った壮絶な被災体験やその後の生活、心情、行政への不満、要望、伝え残したい教訓などを、7編の詩の形式にまとめたものを、女優の竹下景子さんが巨大水彩画「南三陸の黄金」を背景に、ピアノ・オーボエの生演奏と共に朗読された。集まった1200人の観衆がそれぞれの想いを胸に耳を傾けていた。

縁あって、この被災した方々の語った内容を、詩の形式にまとめるという「朗読台本執筆」の仕事を今回させて頂いたのだが、録音音声を繰り返し聴いて文章化してゆく作業の中で、私自身あらゆることを思った。

 

震災以降、実姉と実父を癌で立て続けに失い、ふとした瞬間に押し寄せる無念さと後悔、喪失感に怯える日々だったが、この仕事をつうじて、突然、震災や津波で肉親を奪われた被災地の方々の心情を思ったら、姉も父も、癌センターで最先端の癌治療を受けられたこと、あたたかいベッドの上で家族や医師に見守られて旅立てたこと、そして納得のいく形で葬儀や法事をあげられただけでも幸せだったのだと、少しずつ思えるようになっていった。本人、そして遺族にとっても、もっともつらいのは「行方不明」のままでいることだ。

きっと私だけでなく、震災以降に肉親を亡くした多くの人々が、同じような思いを胸に、深い喪失感からはいあがったのではと思う。被災体験やその後の生活をかたりついでゆくことは、今後の災害時にそなえた防災面での重要性だけじゃない。今、生きている者は、過去を悔み続けるのではなく、今後、同じ過ちを繰り返さぬよう、未来のために「動く」大切さを教えてくれる。当たり前に過ぎてゆく日常のいとおしさに気づかせ、日々を慈しんで生きることの意義を感じさせてくれる。

私も、歳月と共に変化してゆく被災者・被災地の現状や心情を、詩という形式で発信し続けていくことで、この「かたりつぐ活動」に関わり続けてゆきたい。

 

会話における余白

ときめきエッセイ 第121

 

会話における余白

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)

 

 先月、ここで対人沈黙恐怖症について書いたところ、数人の読者から、私のHPを通じてメールを頂いた。(その度に驚くのだが、毎月これを読んでくださっている方ってけっこういるんですね…)。

「わかる、わかる…」「私もそうです」といった趣旨のメールや親身なアドバイスを読みながら、人といると「なにかしゃべらなくては気づまりだし、相手に失礼…」と感じて、ついしゃべりすぎてしまうのは私だけではないことを実感し、寒い時期にじんわりと温まる思いだった。

シッティング利用者からのメールも、うれしかったので紹介する。

「私は自宅に来客があると、『沈黙=もう帰ってほしい』ととられそうで、ひたすらしゃべりつづけ、クタクタになってしまう。家族以外の他人が家にいても、しゃべらずにいられる相手は、考えてみたら、なじみのシッターさんだけです。彼女は、私にとって唯一の気を遣わなくてすむ他人で、私自身の精神的な支えになってくれています」。

 

頂いたアドバイスの中で、これはぜひ、私だけでなく多くの方々にも伝えたいと思う、会話における具体的なアドバイスがあったので、この場を借りて紹介したい。題して、「余白づくりのススメ」である。これを実践するだけで、しゃべりすぎの防止に絶大な効果を発揮するそうだ。

  • 相手がしゃべり終わると同時に、すぐに自分が話し始めるのではなく、「そうそう」とうなづく、「わかるわかる」とあいづちを打つなど、3秒以上、相手への共感を表す動作をとることで、会話のなかにあえて余白(休憩)をつくる。
  • しゃべりだす前に、「あ、これを言ったらマズイかな」といった問いかけをいったん心の中でする習慣を身につけることで、自動的に余白が生まれるし、誤解を生むリスクも防げる。
  • 相手の体験談を聞いてすぐに、共感を示すために似たような自分の体験談を話すよりも、相手の体験談について、あれこれ質問したり感想を述べて、相手の話をより長く味わうほうが、相手もうれしい。

 

以上である。どれもシンプルかつ当然のことかもしれないが、私はこれを読んで深く反省した。と同時に、こんなに具体的な助言をしてくれる読者の存在、その優しさに感謝している。

ソウル・ジュエリー

ときめきエッセイ 第120

 

ソウル・ジュエリー

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)

 

二十日は父の四十九日だった。独りになってしまった母に、最近、新聞広告で知ったソウル・ジュエリーを贈った。ソウル・ジュエリーとは手元供養品のひとつで、大切な人の遺灰(遺骨)をほんの少量、収納できるペンダントである。通常のものと変わらないお洒落なつくりで、シルバー、ゴールド、プラチナなど種類も豊富だ。母にはオープンハートのペンダントを選んだ。ハートの裏側にある直径4ミリのネジを専用ドライバーで開け、中の空洞に遺灰(遺骨)を納めることができる。それを身につけることで、亡き人をそばに感じられて、明るく前向きになれるという愛用者の言葉に、即、私も母に贈ろうと思った。父と私は相性が悪かったが、母は「瞬間湯沸かし器」の父にあわせる性格なので両親は仲が良かった。計5回の海外転勤も老後の田舎暮らしも常にいっしょで、子ども達が巣立った後も、夫婦二人の生活を楽しんでいた。

年明けに、下田市で唯一の書店、ムラカミ書店に挨拶に行き、昨年の4月から委託販売してもらっている詩画集「線路沿いの詩」の売上を精算してもらったら、予想外の金額で驚いた。なので、母にだけでなく私にもソウル・ジュエリーを買うことにした。「対人沈黙恐怖症」を少しでも改善するために。

私は友人知人といると、沈黙が非常に気づまりだ。黙っているのは無愛想で失礼な気がして、話しかけたり、質問したり、必死で話題を探してしまう。でも、そういうのをうるさがり、嫌う人は無論いるわけで、特に物静かな人物を好む父は、私のよくしゃべる性格をひどく嫌った。

また、しゃべる量が多いほど相手の気にさわることを口にしてしまうリスクも増える。ただ沈黙を埋めたくて口にした言葉が、相手を不快にさせてしまうこともある。父とも、これまでに何度それでバトルになったことか…。そのたびに「気を遣って話題をふっただけだったのに」と落ちこむ。私がひとり好きな最大の理由は、「なにか、なにかしゃべらなくては…」という強迫観念から解放されるからだと思う。

今年の私の抱負は、「対人沈黙恐怖症の改善」である。父の遺灰のつまったペンダントが、少しでも「効く」ことを真剣に祈っている。

父の手を握る

ときめきエッセイ 第119

 

父の手を握る

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)

 

 先月、田舎の父の癌の再再発、そして転移がわかった。父は、もう抗がん剤による延命治療はせずに、緩和ケア病棟(ホスピス)への入院を希望した。11月22日までは車の運転もしていて、25日の入院日は母と二人、電車とバスを3時間乗り継いで、静岡がんセンターまで来れたというのに、それから8日後の今月3日、夫と高速を飛ばして病院の父に会いにいったら、癌の進行のせいか、すっかり「病人」になっていた。

既に意識の混濁が出始めていて、父が口で言うことが周囲はよく聞き取れない。筆談では漢字がなかなか思いだせず、ひらがなでやっとの思いで短い文章を書いた。「ようかい(妖怪)がうろうろしている気がしている」など、幻覚症状についても書いていた。

父に、がんセンター内の緩和ケア病棟への入院を第一希望とするか筆談で確認したら、父は混濁した意識のなかで懸命に字を思い出しながら、ようやく「一応、金額をかくにんしておく」と書いた。こんな状況でも、父が家族のためにお金の心配をしていることがやるせなくて、「保険が効くし、個室料もかからないから大丈夫だよ。なにも心配いらないよ」と泣きながら書いたら、それを読んだ父がうなづいた。

それからしばらくの間、横向きに寝る父の手を握っていた。父の手を握るのは、たぶん小学校低学年以来だから、約35年ぶりだった。私は父とは昔から相性が悪く、今年の3月に帰省したさいも、父とは恒例の怒鳴りあいのバトルをしたが、手を握りながら、それが父との最後のバトルであることは、もう分かっていた。帰り際、「次は子ども達を連れてくるからね」と耳元で言ったら、父がうなづいた。

 

これまで私は、「母と子の情愛」をテーマにした詩を300編以上書いてきているのに、「父」をテーマにした詩は一編も書いていない。でも、まだ間にあう。そう思い、帰宅後の3日間、雑務を放棄して集中して書き上げ、6日の金曜の夜に田舎の母にFAXで送った。翌日、病院に行く予定の母が持っていき、父に読み聞かせるつもりだった。

それから数時間後、7日の午前0時過ぎ、家の電話が鳴る。父の容体が急変したという。深夜、下田から三島まで2時間かけてタクシーでかけつけた母も、東京から高速を飛ばして向かった兄夫妻も待たずに、父は入院後、たったの12日間で逝ってしまった。2週間前まで、車の運転をしていたというのに、あっけなく逝ってしまった。

 

私がはじめて書いた父の詩は、数時間遅れで間に合わず、結局、日曜の告別式で父の棺に入れることになった。あれから十日、砂をまるごと飲みこんだような思いが続いている。これまで、帰省するたびにバトルになり、父に優しくなれなかった悔い、詩が間にあわなかった悔い、最期の瞬間、そばにいてやれなかった悔い。大量の悔いが砂の塊になって胸をふさぎ、思い切り泣くこともできないでいる。