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子育てエッセイ

会話における余白

ときめきエッセイ 第121

 

会話における余白

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)

 

 先月、ここで対人沈黙恐怖症について書いたところ、数人の読者から、私のHPを通じてメールを頂いた。(その度に驚くのだが、毎月これを読んでくださっている方ってけっこういるんですね…)。

「わかる、わかる…」「私もそうです」といった趣旨のメールや親身なアドバイスを読みながら、人といると「なにかしゃべらなくては気づまりだし、相手に失礼…」と感じて、ついしゃべりすぎてしまうのは私だけではないことを実感し、寒い時期にじんわりと温まる思いだった。

シッティング利用者からのメールも、うれしかったので紹介する。

「私は自宅に来客があると、『沈黙=もう帰ってほしい』ととられそうで、ひたすらしゃべりつづけ、クタクタになってしまう。家族以外の他人が家にいても、しゃべらずにいられる相手は、考えてみたら、なじみのシッターさんだけです。彼女は、私にとって唯一の気を遣わなくてすむ他人で、私自身の精神的な支えになってくれています」。

 

頂いたアドバイスの中で、これはぜひ、私だけでなく多くの方々にも伝えたいと思う、会話における具体的なアドバイスがあったので、この場を借りて紹介したい。題して、「余白づくりのススメ」である。これを実践するだけで、しゃべりすぎの防止に絶大な効果を発揮するそうだ。

  • 相手がしゃべり終わると同時に、すぐに自分が話し始めるのではなく、「そうそう」とうなづく、「わかるわかる」とあいづちを打つなど、3秒以上、相手への共感を表す動作をとることで、会話のなかにあえて余白(休憩)をつくる。
  • しゃべりだす前に、「あ、これを言ったらマズイかな」といった問いかけをいったん心の中でする習慣を身につけることで、自動的に余白が生まれるし、誤解を生むリスクも防げる。
  • 相手の体験談を聞いてすぐに、共感を示すために似たような自分の体験談を話すよりも、相手の体験談について、あれこれ質問したり感想を述べて、相手の話をより長く味わうほうが、相手もうれしい。

 

以上である。どれもシンプルかつ当然のことかもしれないが、私はこれを読んで深く反省した。と同時に、こんなに具体的な助言をしてくれる読者の存在、その優しさに感謝している。

ソウル・ジュエリー

ときめきエッセイ 第120

 

ソウル・ジュエリー

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)

 

二十日は父の四十九日だった。独りになってしまった母に、最近、新聞広告で知ったソウル・ジュエリーを贈った。ソウル・ジュエリーとは手元供養品のひとつで、大切な人の遺灰(遺骨)をほんの少量、収納できるペンダントである。通常のものと変わらないお洒落なつくりで、シルバー、ゴールド、プラチナなど種類も豊富だ。母にはオープンハートのペンダントを選んだ。ハートの裏側にある直径4ミリのネジを専用ドライバーで開け、中の空洞に遺灰(遺骨)を納めることができる。それを身につけることで、亡き人をそばに感じられて、明るく前向きになれるという愛用者の言葉に、即、私も母に贈ろうと思った。父と私は相性が悪かったが、母は「瞬間湯沸かし器」の父にあわせる性格なので両親は仲が良かった。計5回の海外転勤も老後の田舎暮らしも常にいっしょで、子ども達が巣立った後も、夫婦二人の生活を楽しんでいた。

年明けに、下田市で唯一の書店、ムラカミ書店に挨拶に行き、昨年の4月から委託販売してもらっている詩画集「線路沿いの詩」の売上を精算してもらったら、予想外の金額で驚いた。なので、母にだけでなく私にもソウル・ジュエリーを買うことにした。「対人沈黙恐怖症」を少しでも改善するために。

私は友人知人といると、沈黙が非常に気づまりだ。黙っているのは無愛想で失礼な気がして、話しかけたり、質問したり、必死で話題を探してしまう。でも、そういうのをうるさがり、嫌う人は無論いるわけで、特に物静かな人物を好む父は、私のよくしゃべる性格をひどく嫌った。

また、しゃべる量が多いほど相手の気にさわることを口にしてしまうリスクも増える。ただ沈黙を埋めたくて口にした言葉が、相手を不快にさせてしまうこともある。父とも、これまでに何度それでバトルになったことか…。そのたびに「気を遣って話題をふっただけだったのに」と落ちこむ。私がひとり好きな最大の理由は、「なにか、なにかしゃべらなくては…」という強迫観念から解放されるからだと思う。

今年の私の抱負は、「対人沈黙恐怖症の改善」である。父の遺灰のつまったペンダントが、少しでも「効く」ことを真剣に祈っている。

父の手を握る

ときめきエッセイ 第119

 

父の手を握る

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)

 

 先月、田舎の父の癌の再再発、そして転移がわかった。父は、もう抗がん剤による延命治療はせずに、緩和ケア病棟(ホスピス)への入院を希望した。11月22日までは車の運転もしていて、25日の入院日は母と二人、電車とバスを3時間乗り継いで、静岡がんセンターまで来れたというのに、それから8日後の今月3日、夫と高速を飛ばして病院の父に会いにいったら、癌の進行のせいか、すっかり「病人」になっていた。

既に意識の混濁が出始めていて、父が口で言うことが周囲はよく聞き取れない。筆談では漢字がなかなか思いだせず、ひらがなでやっとの思いで短い文章を書いた。「ようかい(妖怪)がうろうろしている気がしている」など、幻覚症状についても書いていた。

父に、がんセンター内の緩和ケア病棟への入院を第一希望とするか筆談で確認したら、父は混濁した意識のなかで懸命に字を思い出しながら、ようやく「一応、金額をかくにんしておく」と書いた。こんな状況でも、父が家族のためにお金の心配をしていることがやるせなくて、「保険が効くし、個室料もかからないから大丈夫だよ。なにも心配いらないよ」と泣きながら書いたら、それを読んだ父がうなづいた。

それからしばらくの間、横向きに寝る父の手を握っていた。父の手を握るのは、たぶん小学校低学年以来だから、約35年ぶりだった。私は父とは昔から相性が悪く、今年の3月に帰省したさいも、父とは恒例の怒鳴りあいのバトルをしたが、手を握りながら、それが父との最後のバトルであることは、もう分かっていた。帰り際、「次は子ども達を連れてくるからね」と耳元で言ったら、父がうなづいた。

 

これまで私は、「母と子の情愛」をテーマにした詩を300編以上書いてきているのに、「父」をテーマにした詩は一編も書いていない。でも、まだ間にあう。そう思い、帰宅後の3日間、雑務を放棄して集中して書き上げ、6日の金曜の夜に田舎の母にFAXで送った。翌日、病院に行く予定の母が持っていき、父に読み聞かせるつもりだった。

それから数時間後、7日の午前0時過ぎ、家の電話が鳴る。父の容体が急変したという。深夜、下田から三島まで2時間かけてタクシーでかけつけた母も、東京から高速を飛ばして向かった兄夫妻も待たずに、父は入院後、たったの12日間で逝ってしまった。2週間前まで、車の運転をしていたというのに、あっけなく逝ってしまった。

 

私がはじめて書いた父の詩は、数時間遅れで間に合わず、結局、日曜の告別式で父の棺に入れることになった。あれから十日、砂をまるごと飲みこんだような思いが続いている。これまで、帰省するたびにバトルになり、父に優しくなれなかった悔い、詩が間にあわなかった悔い、最期の瞬間、そばにいてやれなかった悔い。大量の悔いが砂の塊になって胸をふさぎ、思い切り泣くこともできないでいる。

U家との再会

ときめきエッセイ 第118

 

U家との再会

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)

 

 2010年から、2月と10月に東京駅前の八重洲ブックセンター本店1階で主人との詩画展を開催している。毎回、新しい出逢いと同時に、胸に沁みいる再会がある。今回は、U家との約8年ぶりの再会があった。独身時代、2年ほどシッティングに伺っていた家庭である。

シッティング開始当時、息子のR君はまだ5歳で、入浴後、裸で逃げまわるのを追いかけまわしてパジャマを着せ、寝る前に絵本を読んだ。そのR君が、背の高いお洒落な高2男子になっているではないか…。

さらにさらに、小6だった娘のKちゃんは大学4年で、4月から、なんと看護師になるという。十年前のKちゃんは、中学受験や遠距離通学などで心身共に疲れていて不機嫌なことも多かった。そのKちゃんが、看護師を志すまでには、きっとさまざまな出来事や紆余曲折があったはずで、忙しい中、懸命に子ども達を育ててきた御両親とおばあ様の努力が実を結んだ結果だと思う。

 

あの頃、私は「月刊福祉」の仕事で、よく独りでさいはての地に取材に行っていた。現地に一泊して夕方、東京に戻り、そのままU家のシッティングに直行する事もあった。帰りの飛行機や新幹線の中で、R君やKちゃんとこれから過ごすにぎやかな時間を思うと、真っ暗な独りのアパートに戻るときよりも明るい気分になれた。

しきりとおばあ様を懐かしがる私のために、翌日、お父様が80近いおばあ様を車に乗せて連れて来てくれ、思い出話に花が咲いた。いつも私は、このおばあ様の自宅にKちゃんとR君を迎えに行っていたのだ。独り暮らしの私に、よく水菓子を出してくれたり、手作りの煮物を持たせてくれた。廃品回収業者に怖い思いをした日の夜、つい、おばあ様に話したら優しくいたわってくれて、泣きそうになったこともあった。

 

当時の私は、微力ながらU家の子育てをサポートしているような気でいたけれど、実際には報酬をもらいながら、私自身がU家の人々に支えられていた。U家をはじめ、さまざまなシッティング家庭に支えられ、影響を受け、感化されていたことが、今はわかる。

あの頃の私は、友人知人のあいつぐ離婚により、結婚に対する不安感が強かった。「ひとり好き」だし、このまま好きなことで食べていけるなら、ずっと独身でもいいと思っていた。でもシッティングという仕事は、そんな私に、家庭を築いてゆくことへの憧れを抱かせ、(無謀にも)絵を志す男と共に生きてゆく勇気を与えてくれた。

今の私は自由じゃない。時間もお金も自由に使えた独身生活が、ただただ懐かしい。それでも、今のこの生活のほうが好きだ。そう思えるのは、あの頃に抱いた「憧れ」のおかげだと思う。

なりたい「職業」と「学歴」

ときめきエッセイ 第117

なりたい「職業」と「学歴」

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)

 

 私が住む街には、製菓の専門学校がある。建物一階の「実習室」はガラス張りになっており、ガラス越しに生徒さん達の実習の様子を見学できる。ときどき、前を通ったさいに実習中だと、娘達としばらく見物していく。これの影響もあってか、最近の長女は「私もあの学校にいきたい。お菓子づくり習って、妹とケーキ屋さんやりたい」と夢を口にする。「それいい!」と賛同しつつ、ふと自分自身をふりかえる。

 小学生だった頃の私にも、なりたい職業がいくつかあった。母が洋裁好きで、余り切れで手芸を教えてくれたので、自分で作った人形などを売る手芸品屋に憧れたりした。末っ子だったぶん、年下の子ども達の相手をするのも好きだったので、保育士にもなりたかった。そのほかにもバスガイドなど、いろいろあったが、高校に進学する頃には、そういった具体的な職業はあまり考えなくなっていた。とにかく少しでも偏差値の高い高校に入ることが最優先だったから。

 ほぼ全員、大学進学する高校に入ったら、やはり自分も大学に行くのが当然に思え、結局、職業について深く考えることはないまま、少しでも偏差値の高い大学への進学をめざした。

私も含め、ほとんどの大卒女子の就職活動は、「なにになるか」ではなく、「どこの会社(組織)の社員(職員)になるか」で、「就職」ではなく「就社」である。大卒の学歴を持ってしまうと、もう、それが必要ない職業につくのは、もったいない気がしてしまうのだ。

だが実際には、卒業後、一流企業のOLになったものの、数年で退社して専門学校に入りなおし、保育士や看護士、デザイナーなどの「手に職系」の道に方向転換する女性は少なくない。OL経験も決して無駄ではないだろうが、多くの日本女性が、本当はなりたい、「学歴を必要としない具体的な職業」があるのに、学歴を手にいれたがゆえに、素直にそれを選べなくなってしまう現実は、不幸というか、さびしい。

新しい出逢い、旧友との出逢い

ときめきエッセイ 第116

新しい出逢い、旧友との出逢い

  浅田志津子(教育・福祉関係のルポライタ ー・詩人) 

 

 今年の夏は、数年前から抱えていた課題をようやく実現した。主人のHP「もうひとつの時刻表」と、私のHP「夕陽色の詩集」を大々的にリニューアルしたのだ。といっても、自力でではない。私達の詩画展によく来てくださるWEBデザイナーのK氏による力作である。

旧HPは、約十年前に主人が四苦八苦しながらなんとか開設したもので、うんざりするほどの文字量で、非常にセンスが悪く、仕事先からも不評だったが、HP製作会社に頼むのは経済的にもハードルが高かった。だが、主人の絵の世界を大変好いてくれるK氏からの申し出もあって、友人価格でお願いすることにした。

新HPは、とにかくすっきりしている。「シンプルイズベスト」である。主人のHPには鉄道風景画、約300点が閲覧できるギャラリーがあり、私のHPのトップでは、自作の詩の朗読が2編、聴けるようになっている。リニューアル早々、地方で開催される子育てフォーラムのアトラクションとして、母と子の詩の朗読依頼が入った。ネットの力ってすごいなと改めて思う。とてもうれしい一方で、顔の見えない、見知らぬ方からの仕事依頼に、どこか不安を感じてしまう私は、やはり時代遅れなのだろうか。

今週は、遥か北欧からHP経由で一通のメールが来た。大学卒業以来、会っていない旧友からだった。彼女も詩が好きな女だった。「ポエトリー・リーディング(詩の朗読会)」・「日本」等の検索キーワードでネットサーフィンしていたら、どこかで私の名を見つけ、検索したら新HPがヒットし、約20年ぶりに私の声を聴き、懐かしくなって、勇気を出してメールしたという。とてもうれしかった。

ネットをつうじて、新しい出逢いや仕事がもたらされるのはうれしい。でも、かつて好きな詩について語り合い、心が響きあう会話を交わした旧友と、遥か何万キロの距離と20年の歳月を超えて、再びつながれるのは、じんわりとした温もりもあるぶん、もっとうれしい。

伊豆稲取駅での出逢い

ときめきエッセイ 第115

伊豆稲取駅での出逢い

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)

 

  8月上旬、伊豆に帰省した。今回の帰省で、私は初めて「ネットで知り合った方と直接会う」という体験をした。根っからのアナログ人間でネット自体をあまりやらないので、ネットを介した出会いは恥ずかしながら未経験だった。
    Iさんは、ブログ「伊豆稲取便り」の管理人で、毎日のように伊豆周辺の自然(山)を散策(ハイキング)し、そのさいのエピソードを味のある文章と写真や動画でUPしている。昨年の冬、友人が、伊豆急蓮台寺駅に常設展示されている拙詩「たたんだ千円札」の「書」について、このブログで取り上げていることを教えてくれ、早速訪れた。
    胸にしみいるような感想(評論)が、論理的かつ味わいのある文章によって綴られていた。うれしかった。友人知人ではなく、見知らぬ人が自発的に書いた感想こそ、社交辞令がない分、心にしみるものだ。一言お礼が言いたくてコメントしたら、すぐに御返事をくださり、それ以降、時々、Iさんのブログを訪れては、山の涼しさを味わってきた。

    6月に、伊豆急本社から連絡があった。春頃から検討中だった、拙詩「帰省」の「書」の常設展示場所が、伊豆稲取駅の待合室に決まったという。心底驚いた。Iさんの最寄り駅だからだ。確定後、Iさんに伝えたら、大変喜んでくださった。このあまりの偶然も、何かの縁かもしれないと思い、8月の帰省のさいに家族で伊豆稲取駅に立ち寄るので、そのさいにご挨拶できないか勇気を出して伺ったら、快諾してくださった。
    待ち合わせた日はあいにくの渋滞で、途中で私だけ車を降りて伊豆急に乗り、伊豆稲取駅で降りる。改札を出たところで、Iさんは奥様といっしょに、暑いなか私を待っていてくれた。
    3人で待合室に入り、まず、書を鑑賞する。自作の詩が書家による「書」になって、老若男女、さまざまな人々が利用する「駅」に常設展示されているさまを観るのは、ただただ感無量である。県立稲取高校の制服の女子高生が読んでくれていて、静かにうれしかった。
    Iさんご夫妻は上品で素敵な方々だった。私の両親と同じく、退職後に関東から伊豆に移住してきた方々で、Iさんは読書家で、ひとり旅(登山)が好き、奥様は手芸好きなところも、親に似ている。いろいろと話しながら、現在、入院中の父と、介護する母のことを思った。
    その後、Iさんのはからいで、稲取で唯一の書店、「山田書店」にて、詩画集「線路沿いの詩」を店頭販売してもらえることになった。今、我が家の和室には、Iさんの奥様手製の、折り紙の美しいつるし飾りが優しく揺れている。娘達はその真下で、マイクを手に歌って踊るのが大好きだ。人生初のネットをつうじての出会いは心温まるもので、勇気を出して、会うことを申し出てよかったなと思う。

父とのバトル

ときめきエッセイ 第114

父とのバトル

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)

 

 昨年暮れ、田舎の父の舌癌が判明した。幸い転移はしておらず、今年の2月に舌の一部を切除する手術をして無事に退院した。3月末に家族で帰省したら、父は以前と変わらないほど元気で、心配された「しゃべる事」についても、サ行の発音のみ若干濁るくらいで、特に問題もない。ほっとしたのもつかのま、一週間の帰省の最終日は、いつものごとく父との大口論(バトルともいう)となった。父と私は昔からそりがあわず、年に1~2回しか会わないのに、会えば結局こうなってしまう。

 私の口から出る言葉が、ことごとく父の癇に障るようで、喜ぶ(笑う)と思って口にした事さえも父には不快に感じられ、苦虫を噛み潰したような顔で、「そういうバカみたいな(くだらない)事を言うなよっ」と怒鳴ってくる。私が言いかえすと、「なら、くるな」となる。それでも毎年帰省するのは、年に一度くらいは孫達の顔を見たいだろうという親の気持ちをくんでのことなのだが…。

  手術から約3ヶ月後、再発しているのがわかり、急遽、6月に再手術をした。今度は、舌根だけ残して舌を大幅に切除し、胃の筋肉を切り取って舌の代わりとして移植し、血管をつなぐという、12時間にも及ぶ大手術だった。翌日、母が看護士から聞いた話によると、手術後、麻酔から覚めた父は、麻酔の副作用による混乱のためか、絶対安静にも関わらず、いつのまにかベッドを降りてひとりで院内をしばらくさまよってしまい、ひと騒ぎになったそうだ。その事を母から電話で聞いた時、胸がひりついた。

  あの頑固で偏屈で強がりな父が、いったいどんな思いで、あの広大な癌センターをひとりでさまよっていたのだろう。近くのホテルに泊まっていた母を、必死で探していたのだろうか。

  幸い、術後の経過は順調で、先週、家族で見舞に行った。父はしゃべることも、流動食の嚥下もできた。よかった。今月2日に退院し、家での生活で体力を取り戻したのち、再度入院して再発・転移を防ぐ抗がん剤治療を開始する。

  これから当分は、父がなにを言っても私は以前のように言い返す気にはなれないだろう。親子や兄弟が相手に遠慮せずに思い切りぶつかりあえるのは、おたがいが健康なうちだけだ。父との恒例のバトルは、もう、前のが最後になるのだろうか。そうじゃないほうが、いい。

娘の自転車デビュー

ときめきエッセイ 第113

娘の自転車デビュー

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)

 

先週から、小学2年生の長女が、近くの公園までひとりで自転車に乗って出かけるようになった。もともと自転車を買い与えたのが小学1年の冬と遅めで、いきなり補助輪無しからのスタートだったが、ふた月もする頃には公園内のトラックでは乗れるようになった。

だが、私達が住むさいたま市は、道路がきちんと整備される前に建物が先に建ってしまった歴史もあり、交通事情が極めて悪い。5差路、6差路、車がすれちがえない一通でない狭い道路や、歩道の幅が1m以下のバス通りがあちこちにある。年間の交通事故発生件数も全国ワースト5の常連であり、中でも自転車と車の事故が極めて多い。そんな訳で、街中での自転車デビューは「まだ危ない…」と先延ばしにしてきた。

でも、先月から近所へ買い物にいくさいに、長女は自転車で、私は歩きで出かけるようになり、少しずつ街中で乗る練習を重ねていった。まだ、狭い歩道で歩行者とすれちがえず、そのたびに止まってはいるが、なんとか近所の公園まではひとりで乗って行けるようになった。学校から帰宅しておやつを食べ終わると、手さげに遊び道具をいれ、自転車の鍵を手に友達の待つ公園に出かけていく。

 昨日、マンションの5階のベランダから、駐輪場での長女の様子をそっと見学した。手さげを前かごにいれて自転車の鍵をガチャンと外し、よいしょと重そうに引っ張り出す。慎重にサドルにまたがると、両足をしっかり地面につけてから、ゆっくりとこぎ始めた。駐輪場を出てマンション前の坂をくだり、角の交差点を曲がり、見えなくなった。ベランダで見守る私には気づかず、ふり返ることもなく。

 今はまだ近くの公園だけど、そう遠くないいつか、ひとりでずっと遠くへ出かけていくだろう。自転車では行けない遥か遠くへも、電車や車、飛行機で、私を置いて出かけていく。ついこの前まで、「ママといっしょじゃなきゃ、やだっ」が、口癖だったのに。

ペンダントを探した日

ときめきエッセイ 第112

ペンダントを探した日

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)

先月末の連休、家族で筑波山に登った。その日の夜は筑波に泊まり、翌日の午後は、霞ヶ浦総合公園に行った。湖に面して風車や水車、蓮の植物園などがある広大な公園だ。ローラーすべり台や、ロケットの形をした巨大遊具もあり、ハイテンションな子ども達と遊びながら、ふと首に手をやってはっとした。ペンダントの革ひもの中心にぶらさがっているはずの、長方形の貝殻細工がない。

夫は時々、地方の鉄道写真を撮りに数日間のひとり旅に出る。たまに、土産物屋で売っているペンダントやブローチを私に買ってきてくれることもある。失くしたペンダントは、4年前、夫が島根の一畑電鉄を旅したさいに、灯台のある日御碕(ひのみさき)の売店で買ってきてくれたものだ。貝殻を素材にした可憐な花模様が美しく、お気に入りだった。

どこで落としてしまったのだろう。デジカメの画像を確認したら、子ども達とローラーすべり台をすべる私の胸元に、その貝殻細工が光っていた。よかった、この場所で落としたのなら、きっと見つかる。落としてから、まだそんなに時間もたってないはずだ。

夫と二人で、最後のほうは子ども達もいっしょになって探した。でも、見つからないまま日が暮れて、もう帰ろうと夫が言った。

「貝殻がキラキラ虹色に光ってきれいだからさ、きっと地元の女の子が拾ったんだよ。その子の宝物になってるだろうから、それでいいよ」。

そう言って笑う夫の背景に広がる夕焼けが、あんまりきれいで、なんだか少し泣きそうになった。この遠い街の湖畔の公園で、夫と子ども達と、日暮れまで貝殻のペンダントを探した日の事を、私はずっと忘れないだろうと思った。たぶん、夫はあっさり忘れるだろうけど。

いつか子ども達も巣立って、おばあちゃんになって、懐かしさと切なさを胸に、遠い日のこのささやかなエピソードを思い出したときに、同じくおじいちゃんになった夫が、そばにいてくれたらいい。「そんなこと、あったっけ」と首をかしげる夫に、「もう、なんでもすぐに忘れちゃうんだから…」と、たあいもないやりとりができたらいい。