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子育てエッセイ

ささやかな野望

ときめきエッセイ 第108回 

ささやかな野望

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)

 

年が明け、新しい一年が始まった。昨年の今は、まだ、姉がいなくなってしまったことへの実感が持てず、ただただ、ぼんやりと過ごしていたことを思いだす。テレビで姉の好きそうな番組をやっていると、姉に電話で教えてあげようとして、そのたびに「あぁ、そうか。もう、いないんだった」と思い出し、しばらくの間、電池が切れた人形のようにその場に立っていた。 

あの頃、しょっちゅうぼんやりしていた私に、幼い娘達が、「ママ、どうしたの」と不安げに聞いてきた。その声に我にかえり、「なんでもないよ」と言って、床に膝をついて子どもを胸に抱きしめた。そのぬくもりにすがっていた。抱きしめる存在は、人間を強くする。子どもがいてよかったと、あれほど切実に感じたことはない。

子ども達の存在が、私に最低限の家事と育児をさせ、動かしていた。そうしていく中で時間は流れ、生まれてはじめて対峙する「姉のいない世界」に、私は少しずつ適応していった。もし、子ども達がいなかったら…。そう思うと、怖い。

ふりかえれば10年前、東京の片隅で独りで生きていた頃も、シッター先の子ども達にずいぶん救われていた。独立当初は仕事において嫌な思いをしたり、惨めさを噛みしめることも多々あった。それでも夕暮れのなか、走ってシッター先へと向かい、子ども達と過ごすうちに、沈んでいた気分も晴れていった。甘えてじゃれついてくる子ども達を、抱きしめてムギュムギュしていると、自然と優しい気持ちになれた。 

そういう、あったかくてほっとする種類のスキンシップは、大人同士の人間関係には存在しない。相手が子どもだからこそ生じるものだ。そして、それは確実に人の心を癒し、精神的な安らぎをもたらすと思う。だから、今年もさまざまな場で、シッターという仕事の意義深さを発信していくつもりだ。そしていつか、この国のすべての女性が、数年間、徴兵制度ならぬ「シッター制度」によって、半ば自動的に子どもと関わる社会にしていくのが、私のささやかな野望である。

 

母親の「自分育て」

ときめきエッセイ 第107回 

母親の「自分育て」

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)

 

先月、子連れで図書館に行ったさい、講演会のチラシがふと目にとまった。講演者の紹介文に「5児の父親でもある○○大学教授の~」とあり、すぐに「あぁ、H先生だ」と思いだした。約十年前、私が詩を連載していた月刊誌「社会教育」で、H先生はエッセイを連載していた。5人の子どもの父親として奮闘するH先生のエッセイは大変面白く、毎月、読むのが楽しみだった。その講演は託児有りだったので、即予約し、翌月、聴きにいった。行ってよかったと思った。多くの母親の胸にしみる話だったので、ぜひ、ここで紹介したい。

演題は「妻が僕を変えた日」である。H先生は大学在学中に学生結婚し、奥様は通っていた国立大学を中退して母になる。H先生は卒業し、大学に職を得てキャリアを積み重ねていく。その後も、次々と子どもが産まれ、奥様は育児に追われながら「大学は中退してしまったけど、自分も資格をとって、いずれ社会で活躍しよう」と、託児付きのスクールに通ったり、通信講座を始めたりとさまざまな挑戦を試みる。だが、どれも長続きせず、途中で辞めては新目標に挑戦…の繰り返しがつづく。

ある日の朝、「これからは国際化だから、英会話を始める」という奥様に、先生が気軽に揶揄する言葉を口にしてしまう。その途端、奥様は突然ボロボロと泣き出し、先生が何度詫びても、一日中泣き続ける。そのときはじめて、H先生は気づくのである。奥様は子育てがつらいのではなく、「自分育て」ができないことがつらいのだと。それまでの、休日に遊園地やファミレスに連れていって家族サービスすれば、妻も満足すると思いこんでいた自分の浅はかさを深く反省し、その日以降、H先生は変わる。奥様の「自分育て」の応援団長になるのだ。

私もそうだった。二人目が産まれて以降、仕事は激減、自分の時間もなくなり、精神的にひからびていくような感覚があった。新規の仕事先の営業がしたいと思っても、突然、病気になる子ども達を見つめては、「どうせ無理だから…」とあきらめていた。子どもは日々成長し、夫は仕事の範囲を広げていくなか、自分だけ成長を足止めされているような気がしていた。そしてある日、週末の家族お出かけを誘う夫に言った。「それより私は、前に取材した教育者から送られてきた本が読みたい。子ども達連れて、行ってきて」と。

H先生や夫のように、「俺が働いて養って(やって)るんだから、あとは休日に家族サービスすれば十分でしょ」と、漠然と思いこんでいる男は、昔も今も少なくないだろう。だが、母親だって、「一個人」としての自分を抱えている。自分育てをして成長したいと思っている。その想いに夫が真摯に向き合い、できるかぎり子どもにしわ寄せがこないよう協力しあうことで、夫婦の信頼関係は何倍も深まっていくだろう 。

 

福島の七五三

ときめきエッセイ 第106回 

福島の七五三

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)

 

先月の上旬、主人の個展の手伝いで福島県郡山市に数日間、滞在した。個展会場は「開成山大神宮」の中にある建物で、週末には何組もの家族連れが参拝に訪れ、ひと月早い「七五三」を祝っていた。晴れ着に身を包み、笑顔あふれる福島の子ども達と、子の写真を撮る親達の姿を見つめながら、いろんなことを思った。 

今、3歳前後の子ども達は、1年8カ月前の大震災と原発事故の時には、まだ乳児だったわけで、母乳育児真最中だった母親も大勢いるだろう。たたでさえ乳児を抱えた母親は神経質になりがちなのに、「母乳からセシウム検出」などの記事が全国紙の一面に載る日々が続く中、どれほどの不安と葛藤、目には見えない恐怖に怯えながら、子どもを育ててきたのだろうと思う。 

第一原発から約60キロ離れ、仮設住宅が立つ郡山市においても、仕事がある父親だけ残って、母子だけでより放射線量の低い地へ避難するケースが少なくない。市内の幼稚園や小学校の児童数も相当減っている。そんな中で、福島にとどまり、生活してきた母子の心情を思うと、同じく小さい子どもを持つ親として、なにかせずにはいられない。 

震災以降、昨年末まで、主人と二人、国が設置した全体の義援金窓口へ、展示販売会の収益の1割を寄付する活動を続けてきた(詳細はHP参照)。それとは別に、ピンポイントに「福島の母子」への支援がしたい。福島の七五三を見ていて、そう強く思った。

 幸い、福島の実業家の方々によるプロデュースで、来春、郡山市で「母と子の情愛」をテーマにした「詩の朗読会」を開催することになった。(主人の講演&スライド上映、展示販売も有り)。このイベントの収益の一部を、「福島の母子支援」を目的に、継続的に活動しているNPO団体に寄付することになった。「母と子の詩」をつうじて、少しでも福島の母子に寄り添えたら、こんなにうれしいことはない。

 

独身時代のシッティング

ときめきエッセイ 第105回 

独身時代のシッティング

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)

 

先月、主人の絵と私の詩による第二詩画集、「線路沿いの詩(うた)」を発行した。この数年の新作だけでなく、週2、3回、ベビーシッターをしていた独身時代に書いた、母と子の情愛をテーマにした既発表作品も多数収録している。それらを読み返すと、当時の自分が思いだされて、少なからず胸が痛む。 

約10年前、私はルポライターとして独立したけれど、ライター収入だけでは食べていけず、お世話になっている女性編集者の子どものシッターを一時的に引き受けた。それがきっかけで、私はベビーシッターという仕事に愛着を持ち、その後、分厚いタウンページをめくって、㈱ファミリーサポートに1本の電話をかけたのである。 

それから約5年間、どれだけたくさんの家族と出逢ってきただろう。どの家も、まだ小さい子どもがいる家独特の、生活感と、おもちゃと、あたたかさにあふれていた。棚の上の家族の写真の数々、壁に貼られた子どもが描いた絵、ベランダに干された大量の子ども服…。 

当時、本と雑誌ばかりの1DKの古いアパートに住んでいた私にとって、それらの家のあたたかさ、明るさは、時にまぶしすぎて、自分の孤独さが身に沁みるときもあった。 

なにより、出逢う子ども達ひとりひとりが、母親に抱く絶対的な愛情が羨ましかった。私も、誰かにあんなふうに自分の存在を激しく求められたかった。一時の恋愛とは異なる、永遠に、かけがえのない存在になりたかった。そして私のような「おひとりさま」には、それは不可能かもしれないと、どこかで静かに感じていた。 

そんな切ない思いが、私にいくつもの「母と子の情愛」をテーマにした詩を書かせたのだと思う。あの頃、自分でも驚くほど、私の内から、ごぼごぼと温泉が湧きでるように、母と子の詩が日々、産まれていた。それらをまとめて発行したのが、処女詩集「最後のだっこ」である。詩人としての初めの一歩だった。婦人服の会社の企業カレンダーに採用されたときは夢のようだったし、育児雑誌から詩の連載の依頼が来たときは、天にも昇る気持ちだった。本当にあれからもう、十年がたったのだ。

 「ひとり好き」だった私が、結婚し、二児の母として生きる人生を選択した背景には、少なからずシッティングの影響がある。あの頃に出逢った、さまざまな家族の「あたたかさ」のせいである。

 

教えるって面白い

教えるって面白い

カーサ・クラブ英会話講師チューター

市橋理恵子

 

私が「教育に関わる仕事をしたい」と思い始めたのは自分の子どもを持ってからです。大学では医用機械工学を学び、外資系コンピューターメーカーに就職、プロジェクトを何個か経験し、結婚、2度の産休、育休を経て、ようやくフルタイムに復帰した後の事でした。

仕事は楽しく、毎日充実していましたが、ふと「子ども達を長時間保育園に預け、余裕のない生活を送るのに見合うだけの仕事をしているのか?所詮顧客の金儲け等の為のシステムを作っているだけではないか」と疑問を持ち始めたのです。自分や子ども達のより幸せな将来の為にやるべき、もっと大切な事があるのではないかという思いが膨らんでいました。

そんな時、夫に海外赴任の話が舞い込み、私は「これはチャンス」と仕事を辞めて家族でアメリカ生活を始めました。6年半のアメリカ生活の間、子ども達の幼稚園や小学校でボランティアで先生の補助をしたり、子ども達が友達と一緒に宿題をやる場を提供しながらチューター役をしたり、アメリカの教育と子ども達をじっくり見ることができました。

その中で、「私は○○が得意だ、私の長所は○○だ、将来は○○をしたい」と、子ども達が将来に対して夢と希望を持っているのがとても印象的でした。先生も、生徒達の良さを見つけてそれを伸ばす努力を、弱点を認識してそれを強化する努力と同じかそれ以上にしているのが感じられました。自分の魅力を詩にするという課題が出て、書くことが何も思い浮かばずに戸惑っているのはうちの子どもだけで、みんなすらすらと素敵なことばが出てくるのにびっくりしました。

そのような個性を伸ばす教育をするには指導者も数が必要で、児童20人の学級には担任の他に私の様なボランティアが常時4~5人いて、それぞれ小グループを受け持って授業を進める仕組みになっていました。ボランティアが高じて産休代理で担任になったり、夜間大学に通って資格を取って正規の教師になったりする保護者も多くいました。実際先生の半数以上は一般企業で職歴を積んだ後、出産・育児を経て教師になったという人でした。いくつになっても人生の方向性を変えて生きていく事ができるのは素晴らしく、そのような先生に学べる生徒達は幸せと思いました。

帰国後は、日本の子ども達が自尊心と夢を持って明るい未来をめざして生きていけるようなお手伝いしたいと思い、それには低年齢の子どもが一番と、ファミリー・サポートのカーサ・デル・バンビーノのプレスクール(2歳児)英会話講師として採用して頂きました。

私は帰国子女で英語はネイティブですが、教員免許はおろか幼児教育に関する知識も英会話の指導経験もなく、最初はチャレンジの連続で目標の教育には到底及ばなかったと思いますが、2歳の子ども達20人に英会話を教えた4年間はとても貴重な経験となりました。

その後プレスクールでは英会話講師に外国人を使う事になり、私は幼稚園生・小学生対象のカーサクラブの英会話講師となりました。またベビーシッター部門のチューターとして中学受験指導もしています。

自分の子ども達の勉強もアメリカ時代に全て家庭で見ていた延長で、大学受験まで理系科目は私が教えた事もあり、縁あって中高生の数学と理科の指導も頼まれるようになり、今は4歳から18歳まで、10人ほどの子ども達と関わっています。

教えている教科は様々ですし、生徒の性格や思考のくせによって指導方法も様々ですが、「わかると楽しい、やればできる」という気持ちを育て、「あなたのこんな所が素晴らしい、こんな所が大好き」と伝えるように心掛けています。生徒が「ああ!なるほど。」「へえ~面白い!」「できた!」と目を輝かせてくれる時が何よりもやりがいを感じる幸せな瞬間です。

個別指導となるので私一人にできる事は高々しれていますし、数年間の関わりが子ども達の人生にどれだけの影響を与えるかも分かりません。またフルタイムに相当する時間数働いても、収入は会社勤めをしていた頃の3分の1程度ですが、これが自分の目指す教育を見つける道の現状です。

私は社会の中で小さな努力をしているだけですが、今の若者達の元気のなさ、社会の閉塞感を打開するにはもっと教育、子育ての重要性が認識されるべきだと思います。敗者を切り捨てやり直しが難しい社会、学校教育の閉鎖性、家庭の子育て力の低下等、親も子も夢や希望を持ち続けるのが難しい状況です。

子育てと教育の重要性や面白さがもっと理解され、教師の質と収入、社会的地位が上がり、様々な人生経験を持った人が教師になれるような社会にする必要があると思います。次世代がより良く生きられ持続性のある社会を実現するために、大人達がもっと教育について真剣に考えるようになれば、このような社会も実現できると信じ、このまま走り続けてみようと思っています。

 

ママだけの夏休み(3日間)

ときめきエッセイ 第104回

ママだけの夏休み(3日間)

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)

 

9月の頭から、主人が十日間、地方の百貨店での個展開催で留守することになり、その期間中、2泊3日で子ども達を主人の両親に預かってもらうことにした。約7年ぶりの「ママだけの夏休み」である。

これまでも、数日間子ども達を親に預かってもらったことはあるが、それは私も仕事で外泊するためなので、休息とはほど遠いものである。

だが、今回は違う。ひとりで3日間、自宅で過ごせるのだ。たっぷりある時間を自分のためだけに使えるという幸福…。こんな素敵な3日間、次は何年先になるかわからない。だからこそ、少しでも悔いのないよう過ごしたい。気をつけないと、デジカメの写真のプリントや、子ども服のゴムの入れ替えなど、日頃やらねばと思いつつ、できずにたまっている雑務を片付けているうちに終わってしまう。そうならぬよう、私は3つの規則を自分に課した。

①家事は最小限。料理はしない。

②「雑務」と「仕事」はせずに、「創作活動」に時間をかける。

③読書は夜、布団に入ってから。

かくして、現在、2日目の夜11時である。昨日の初日は朝10時に子ども達を義母に託したのち、家事は洗濯だけにして、文学賞に応募する随筆の執筆に費やした。朝食はトースト、バナナ、コーヒー、昼食は「ラ王」とトマト、夕食はカレー(レトルト)とハムときゅうりだった。夜12時半に布団に入り、約10年ぶりに坪田譲二の「善太と三平」を深夜2時まで読みふけった。読書でこんなに泣いたのは何年ぶりだろう。

今朝は8時半起床。朝食はグラノラとバナナ、コーヒー。掃除機だけかけて、食堂にミシンと洋裁箱を出す。昨年夏に買った涼しげな綿の生地で、ママ用のスカートを縫う。ウエストがゴムで、しごく簡単なつくりなので、約3時間でできた。うれしい…。

昼食はメロンパンとシュウマイ(冷凍食品)。その後、来月、八重洲BCで開催する詩の朗読会の構成を考え、プログラムを作成し、アンプ&スピーカーを出して、詩の朗読の練習。そして昨日、書き始めた随筆のつづきにとりかかる。夕飯は、お茶漬と卵焼き。このまま12時まで執筆して、その後は布団の中で、お楽しみの読書タイムが待っている。

ママ(だけ)の夏休みは、つましいけれど、最高だ。

 

いろいろな顔 みんな本当の気持ち

いろいろな顔 みんな本当の気持ち

代表取締役 中舘慈子

 

夏が通り過ぎていきます。子どものころの夏の思い出は感覚的にいつまでも残っているような気がします。線香花火の残り香、日焼けした肌のぴりぴりした感じ、眠くなるような油蝉の声・・・。

この夏、ふだんとは違う体験をされたお子様もいらっしゃるとでしょう。ご家族そろっての旅、ご家族のふるさとで自然に囲まれて過ごした体験、先生やお友達と塾で過ごされた日々、そして普段より長い時間シッターと一対一であそんだ夏の午後・・・。

小さなお子様でも、パパやママとご一緒のとき、先生といらっしゃるとき、おじいさまやおばあさまと過ごされるとき、シッターとお留守番されるときなど、はっとするほどいろいろな顔をしています。くつろいだお顔、緊張したお顔、寂しそうなお顔、一生懸命よい子にしているお顔・・・ いろいろな顔のすべてがお子様のそのときの本当の気持ち。

いろいろな人とふれあい、愛され、しかられて、この夏お子様たちはまた一回り大きくなられたことでしょう。

祖父母の本音

ときめきエッセイ 第103回 

祖父母の本音

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)

 

お盆は、伊豆の私の実家に子連れで帰省した。昨年のお盆は1週間ほど滞在していたが、今回は2泊3日で早々に戻ってきた。70半ばを過ぎた老親にとって、孫達の滞在は心身共に疲れるものであることを、最近は帰省のたびに、ひしひしと感じるからである。

親は孫達のことが決して嫌いなわけではない。かわいく思う気持ちも無論ある。けれど、そのにぎやかさ(とにかくうるさい…)、聞き分けのなさ(特に次女)、孫達がおもちゃをとりあって、家中をかけずりまわってギャーギャー騒いでいる状況が耐えがたいようで、しょっちゅう深いため息をついている。このうるささが日常である私とは異なり、普段、夫婦二人だけで(しかも山奥で)、静かな田舎暮らしを送っているぶんつらいようで、目をぎゅっと閉じて、両耳をふさいでいたりする…。

かつては、親のそういう態度に腹をたてた時期もあった。普段は遠く離れている孫達との、久しぶりのひとときなのだから、もう少し孫の滞在を楽しむ姿勢を持ってくれてもいいのにと、親と口論になったこともあった。けれど、私も40を過ぎて自身の「老い」を感じるようになり、そのぶん、親の老いを受け止められるようになってきたのだ。

若かった頃の私は、「老い」は体力の衰えをさすもので、「身体」にくるものと思っていた。でも、実際はそうじゃない。老いは精神面にも、ずっしりとくるのである。人生の晩年を迎えている親にとって、まだまだ人生はじまったばかりの孫達は、まぶしいのと同時に、どこか遠い存在でもある。知識の内容も、思考回路も、スピードやリズム(テンポ)も、興味の対象も、なにもかもが違う孫達の相手をしつづけるのは身体的にきついだけでなく、心と脳が疲労困憊してしまうのだろう。

「孫が来るとうれしい。帰ると、もっとうれしい」。この名文句は、私の親に限らず、多くの祖父母の本音なのかもしれない。少し淋しい気もするけど、親には親の生活があるのだから仕方がない。そう思えるようになったことが、この数年における「ママの成長」なのである。

 

ママだって子ども

ときめきエッセイ第102回 

ママだって子ども

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

9月に、第三詩集「線路沿いの詩」を主人の絵との共著で上梓するので、今月は、その編集作業に追われている。収録する詩を選ぶため、この数年の間に書きためた作品を読み返しながら、改めて思った。子どもの視点での「母と子の情景」を描いたものが、圧倒的に多い。

母になって以降、一時期は「母の視点」にたっての「母と子の詩」を書くようになり、育児雑誌で連載していたが、まだ、母親歴が短いからか、心から納得のいくものは、あまり書けなかった。結果、いい歳をして、今もなお、子どもの視点での「母と子」の詩を書いている。

先月、田舎の母が数日間我が家に滞在した。きれい好きな母は、「毎日、掃除機だけじゃなく、ぞうきんがけもしなさいよ」と小言を言い、「忙しいんだってば」と口をとがらせる私に、6歳の娘がぽつりと言った。

「ママ、子どもみたい。変なの…」 

「だって、(母の)子どもだもん」と言い返したら、「ちがうよ。ママは子どもじゃないよ。大人だよ」と神妙な表情で、訂正してきた。その瞬間、思いだした。子どもの頃、少女だった頃の母の、モノクロの古い写真を見て、衝撃を受けたことを。

母に子ども時代が、私の母ではない時代があったことが、ただただ、信じられなかった。そして、なぜか無性に、淋しくて哀しかった。私にとって専業主婦の母は、母以外の何者でもなかったから。

娘も、かつての私とおなじまなざしで、私を見ているのだろうか。ママ(私)は生まれたときからママであり、私にも子どもの頃があったという事実は、信じがたいことで、しかも、娘を哀しくさせるのだろうか。

「ママ」としての自分は、私というひとりの人間の一部である。私はママであると同時に、いくつになっても(母の)子どもであり、女であり、読書とひとり旅をこよなく愛する一個人だ。でも娘には、それは認めたくないことなのだろうか。私が、かつてそうだったように。

ここまで書いて、はっとする。もしかしたら、私の前では、常に母の顔を保ちつづけている母も、若かりし頃は、内心では今の私と同じような、「一個人」としての自分を持っていたのだろうか。いや、70を過ぎた今も、持っているのかも…。そう思うだけで、胸がすぅっと凍りつくような感覚がよぎる。つまるところ、40を過ぎてなお、私は子どものままであり、母に母しか求めていないのである。

 

ラストラン(6年生リレー)

ときめきエッセイ 第101回

ラストラン(6年生リレー)

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

今月はじめ、小学1年の長女の初運動会があった。これまでの、保育園の園庭で開催されるアットホームなものとは異なり、6学年(約800人)が、「紅組」「白組」の二つに分かれて真剣に勝ち負けを競い合う、大規模なものである。

紅組、白組の応援団長&応援団による「応援合戦」で幕を開けたが、まず、これがよかった。団長はじめ、応援団全員が声をはりあげ、手を振り、味方、そして敵チームにもエールを送るという、その厳かで神聖な儀式に「伝統ってやっぱりいいな」と思う。

午前から午後にかけては、各学年ごとの徒競走、団体表現、団体競技、そしてリレーがある。1年~3年生までの「低学年」は、まだ小さな体で一生懸命がんばる姿が、とにかくかわいらしく、ほほえましい。

いっぽう、4年~6年生の高学年は、その「かっこよさ」にぐっとくる。団体表現では、そろいのはっぴを着ての粋なヨサコイや、組体操などが披露されたが、そのレベルの高さに驚かされた(人間ピラミッドなんて4段あって、頂点の子は立つのである…)。

そして、最後を締めくくるのは「ラストラン」(6年生リレー)だ。久しぶりに生のリレーを見て、少なからず胸を打たれた。特に、バトンの受け渡し地点で、最下位でようやくバトンを受け取った子達が、みな、「俺(私)がぬいてやる」とばかりに、鉄砲玉のように走り出す姿に。

これまでは、街中の小学5、6年生を見るたびに、シッター先の「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」に会うたびに、「自分達の頃とは、全然ちがうな…」という思いを常に抱いていた。お洒落にやたらと関心が高く、DSなどのゲーム機を携帯し、ヒップホップやゴルフを習い、女子にいたっては、かつて私達が夢中になった「りぼん」などの少女漫画ではなく、ローティーン向けのファッション雑誌をめくっていたりする。こちらが話しかけても、けっこうクールな彼(彼女)達には、「一生懸命」という言葉は似合わない気がしていた。

でも、最下位でバトンを受け取るやいなや、歯をくいしばってがむしゃらに走り出す彼らは、クールでもお洒落でもなかった。ただただ、ひたむきで懸命だった。我が子の写真撮影に必死になっている自分がなんだか恥ずかしく、人の子ががんばる姿にこれほど胸を打たれたのは、はじめての経験だった。