ホーム>子育てエッセイ

子育てエッセイ

一芸にひいでる

一芸にひいでる 

保育スタッフ M.S.

 

自分にとって一芸にひいでているものは? と考えたとき、趣味の陶芸は趣味にとどまって、一芸にひいでるほどでないし、誰にも負けずこれだけは自信ある! と言えるもの、それは育児―子育て―です。

学生のころに学んだ幼児教育の理論を自分の子育てに実践したこと、これが私の自慢できる一芸です。

胎教のためにいい音楽を聴き、お腹の子に語り掛けました。夫も毎日大きくなっていくお腹に口をつけてなにやら語りかけていました。誕生したあとは母乳で育て、育児日誌をつけ、お散歩したり、ご近所さんと意識的に交流したり、食事のバランスを考えて食べさせたり、語りかけは正しい言葉遣いで、あそびに集中しているときは邪魔せず、見守り。楽しい体験(キャンプ、スキー、お祭り、お泊り~etc.)をできる限り採り入れ、公園めぐりにいそしみ~と、生活そのものが子どもの成長に影響してくるので、子ども中心に生活し、楽しみ、子どもと共に生きた子育てでありました。

育児日誌は2人の子どもたち3歳までつけ、その後は2人の子どもの新聞を作り楽しみました。

この育児は、多分、私の人生の大きな宝物となっています。その子どもたちもおかげさまですくすく育ってくれ、2人とも父の母校のW大学卒業後、総務省、大学職員となり、ただいま社会人として貢献しています。そしておのおのが人生の伴侶と出会い、また、親に楽しいプレゼントを施してくれています。

楽しかった! わが子達の育児、これは誰にも負けない自分自身の大きい自身となっています。

育児が一芸とはいえないかもしれませんが、この育児は自分の誇りとなっています。

「楽しい子育て」への架け橋

「楽しい子育て」への架け橋 

保育スタッフ 今井 友子

 

テレビや新聞でしばしば「虐待」のニュースを目にします。目を背けたくなるような内容のンユースばかりですが、私には決して人事とは思えません。

不妊治療の末、双子を授かり、「子育てを楽しもう」と決心したものの、現実派甘くはありませんでした。親や夫の協力は少なく、常に睡眠不足で、体のあちこちが痛み出し、外出もままならない状況で、自分の精神のバランスを保つことは本当にたいへんでした。

しかし、そんな中でもいくつもの救いがありました。「本当にがんばってますね」といってくれた保健所の方、「2歳になればラクになりますよ」と教えてくれた保育園の先生、愚痴を言い合えるママ友達、そして初めてベビーシッターさんに双子を預けてひとりでランチに行けたときには、涙が出てきました。皆さんの助けの中で子どもの成長と共にいつしか「子育ては楽しい」と感じることができました。

ベビーシッターにはお母様の「たいへんな子育て」を「楽しい子育て」に変える力があると思います。子どもにとっては、お母さんが一番です。お母様の気持ちに寄り添い、慰め、共感したいです。

お子様の成長に気づき、よい行動や素晴らしい個性やかわいらしさをお母様にお伝えしたいです。それによってお母様のこころの余裕ができれば「たいへんな子育て」は「楽しい子育て」に変わり、お子様によりたくさんの愛情を注いでもらえると思います。そんな「楽しい子育て」への架け橋となるようなベビーシッターになりたいです 。

 

「お世話になった人たち」

「お世話になった人たち」 

保育スタッフ森田公子

 

3月に嬉しいことがありましたので、報告いたします。

中学卒業間近なA君がクラス文集を見せてくれました。 

A君が「将来豪邸に住みそうな人」ランキング第1位になっていたのも嬉しかったのですが、作文を読んでいくと、部活動、体育祭、合唱コンクールなどの思い出が多い中、A君は「お世話になった人たち」という素敵なタイトルです。

~略~

僕がお世話になったのは、先生、友達、知り合いの人たちです。 

~略~

知り合いの人とは森田さんと北海道の人たちです。森田さんは僕が小学一年生のときから(ベビーシッターとして)来てくれていて、晩御飯を作ってくれたり、一緒に出かけたりしました。

~略~

不安でいっぱいで大きなランドセルを背負って小学校入学したA君も高校生になります。 当時、弟君のシッティングでうかがうようになって、珍事件、思い出がいっぱいのご家庭です。

今ではご兄弟そろって大の仲良し。私にとって初レギュラーのお客様です。弟君もお誕生日を迎えると11歳になります。

もう少しお世話させていただけるかしら?

 

忙しい=幸せ?

ときめきエッセイ 第100回

忙しい=幸せ?

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

とうとう、このエッセイも記念すべき「100回目」を迎えた。連載がスタートした7年前、私は絵を志す夫と結婚し、新しい人生に踏み出した頃だった。翌年には長女、3年後には次女が生まれ、子育て、家事、仕事をするなかで、日々感じるさまざまな思いを、このエッセイにつづってきた。今、過去のエッセイを読み返しながら、改めて思う。過去の私と、2児の母になった今の私は、ずいぶん変わったなと。

かつての私は、いつも何かを追い求め、「現状に満足する」ということを知らず、走り続けているようなところがあった。漠然と、忙しいほうが幸せで、充実していてかっこよく、暇であることは淋しくみっともないような気がしていた。家で過ごす休日が嫌で、疲れていても、無理して予定をいれることも多かった。その根本には、「(忙しく充実していて)幸せな人と周囲から思われたい」といった、見栄や願望があったように思う。そのくせ、なにが自分にとっての本当の幸福なのか、真摯に考えることはなかった。

今の私にとっての最大の幸福は、「家族が心身共に健康で、穏やかな生活がずっと続くこと」、これに尽きる。昨年、姉を癌で失ってから、その思いはいっそう深まり、強くなっている。独身時代は健康なんて「当然」すぎて、あえて求める幸福ではなかった。「穏やか」はむしろ「退屈」で、それよりも「わくわくする何か」や、「成功」や「評価」を求めていた。「健康で穏やかな暮らし」に感謝し、幸せを感じたことなんてなかった気がする。きっとそれは、かつての私には「守るもの」がなにもなかったからだろう。

今思えば、独身の頃は身軽で気楽だった。時間もお金も自分のためだけに使い、自分のことだけしていたあの頃を、懐かしく思うことはしょっちゅうある。特に子ども達の病気の看病で、寝不足と不安の日々が続いたりすると、切実に思う。けれど、あの頃に戻りたいとは思わない。子どもの病気が治って、笑顔が戻ったときの、涙がこぼれるほどの幸福を知らない、あの頃の自分には。

今の私は、忙しいのが「心底イヤ」だ。多忙な日が続くと、目先にせまった「しなければならないこと」に追われて慢性的にイライラし、まず、家族に対する態度が悪くなる。家の中が汚れ、食生活も乱れ、睡眠不足になる。そしてなにより、日常の中で、物事を深く見つめたり、ふりかえったり、季節ごとに移り変わる風景の美しさや、子ども達の仕草に見とれたりする「ゆとり」が奪われていく。結果、心が痩せていき、私自身がスカスカになっていくのがわかる。

「一日じゅう家にいられて、のんびり過ごす日」を、なによりもこよなく愛する今の私を、かつての私が見たら「あぁ、みっともない。すっかりおばさんになっちゃって…」とため息まじりに嘆くのだろうか。

 

長女の巣立ち

ときめきエッセイ 第99回 

長女の巣立ち

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

4月9日から、我が家は「新生活」が始まった。長女が小学校に入学したのだ。これまでは朝、八時半頃に家を出て、長女と次女を車で保育園に連れていく生活だったが、今はちがう。小学校は通学班ごとの集団登校で、長女は「7時20分」に家を出ることになり、「大変」である。 

毎朝、通学班の集合場所である家の前の公園まで、娘と手をつないでいく(3歳の次女も連れていく…)。上級生の女の子達といっしょに、5人で縦一列になって、小学校まで約25分の道のりを歩くのだ。 

長女は新しい人間関係に慣れるまで、かなり時間がかかるタイプで、通学班でも、クラスでも、まだほとんど話せていないようだ。朝、公園で整列して歩きはじめるさいに、必ず、不安げな表情で私を見あげる。いっしょについていってやりたい気持ちを抑えて、満面の笑顔で「いってらっしゃい!気をつけてね~」とちぎれんばかりに手を振り、列が見えなくなるまで、次女と手をつないで見送る。 

入学式から早2週間、まだ授業がほとんど「遊び」に近いこともあるせいか、娘はけっこう楽しそうに学校に通っている。隣の席の男の子の名前や、前後の席の女の子の名前が、ようやく最近になって、娘の口からぽつりぽつり、出るようになってきた。 

今朝、公園で整列して小学校へと出発するさい、初めて娘は、私を一度も見なかった。もう、通学班のお姉ちゃん達にも慣れ、心が学校に向いている表れかもしれない。親として喜ばしいような、どこか淋しいような、複雑な思いにかられながら、歩き始めた娘の小さな背中に大きく手を振った。 

「いってらっしゃい!気をつけてね~」。

 私の声を背中で聞きながら、ふりかえることなく歩いていく娘を、列が見えなくなるまで見送った後、しばらくその場に立っていた。はじめて味わう感傷だった。つないだ次女の手のぬくみが、ありがたかった。

 

ランドセルを買った日

ときめきエッセイ 第98回

ランドセルを買った日

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

おととい、主人の両親と長女のランドセルを買いにいった。デパート内の売り場で、長女に候補のランドセルをいくつも背負わせては満面の笑を浮かべる義父母を見つめながら、今日にいたるまでの歳月が思いだされた。義父母にとって長女は待望の初孫であり、常にあふれるほどの愛情をそそぎ続けてくれた。まだ赤ちゃんの頃からランドセルを買うのをそれは楽しみにしていて、「気が早すぎる」と笑い合ったものだが、とうとうその日が来たのである。

この6年間、義父母には本当に世話になった。保育園に代わりに迎えに行ってもらったり、仕事で地方へ行くときは、泊まりがけで預かってもらうこともしょっちゅうだった。(3年前からは、次女も加わった…)。二人共もう年だし、実際は大変だったと思うが、頼むといつも「いいよ、いいよ」と笑顔で応じてくれ、その優しさに甘えてきた。子ども達が事故や怪我にもあわず、義母のつくる旬の野菜たっぷりの御惣菜のおかげで食べ物の好き嫌いもなく、ひねくれもせずに、ここまで大きくなれたのは、ひとえに二人の子育て支援があったからだ。

私自身、二人の存在にずいぶん助けられてきた。特に次女が2歳前後の時期は精神的に余裕がなく、ギャーギャーけんかし続ける子ども達に「うるさいっ!!」と叫ぶのは日常だったし、あまりにも言うことを聞かず、カッとなって手をあげたことも何度もある。週末は、主人は地方の仕事で不在になることも多く、土日の2日間、ひとりで子ども達の相手をし続けると、日曜の夜には耳鳴り&頭痛がはじまることもあった。

それでも、なんとか乗り越えられたのは、車で約50分の距離に住む義父母の存在があったからだ。「いざというときは、子ども達を預かってもらえる」。そう思える相手の存在が、どれほど子育て中の私の精神状態を支えてくれたことだろう。それがあったからこそ、仕事が大変なとき以外はできるかぎり頼らずに、夫婦で育ててこられた気がする。

買い物を終えてデパートから出たら、花屋が目についた。今のこの感謝の想いを、せめて花で伝えようと思い、園芸が大好きな義母に鉢の花を買おうとしたら、「いらない、いらない」と固辞するので辞めた。代わりに5月の連休は、みんなで泊まりがけでどこかへ出かけようと思う。温泉に孫達とつかりながら、はしゃぐ義父母の笑顔が目に浮かぶ。

 

姉の教え その②

ときめきエッセイ 第97回

姉の教え その②

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

今日は姉の四十九日の法要だった。姉の義兄夫妻が1歳3カ月になる赤ちゃんを連れてきていた。そのかわいらしい仕草を見つめながら、母になることなく逝った姉のことを思った。

姉は法廷通訳の仕事に明け暮れ、結婚も遅かった。子どもを欲しがっていたけれど授からないまま仕事を続け、40歳で病気が発覚した。それからは治療に専念するため、仕事も辞め、子どももあきらめることになった。その時からずっと、思ってきたことがある。

「姉が子どもを産んでいれば…」。

妊婦が受けるさまざまな検査がきっかけで、病気が発見されるケースも多いので、姉の乳がんも早期発見され、完治したかもしれない。たとえ完治はせず、抗がん剤治療を続けることになっても、子どもがいれば、母として、子どものために少しでも長く生きなければという使命感にひっぱられ、もっと長生きできたかもしれない。

働く女性のほとんどは、いずれは母になるつもりでいる。だが、出産のために生じる仕事のブランクや、その後の育児の大変さを考えると躊躇して、つい先延ばしにしたくなる。でも、本当に欲しいのなら、いつまでも先延ばしにしないほうがいい。「さぁ、産もう」と思っても、すぐに授かるとは限らないし、女性の40歳前後は、さまざまな病気が寄ってくる時期だ。病気になったら、不妊治療よりも病気の治療を優先することになる。

昨年の春、子連れで伊豆の実家に帰省中、ちょうど姉も来ることになり、久しぶりに姉妹で実家で過ごした。夕方、犬の散歩に行こうと思い、2階の娘を呼びにいったら、窓際の椅子に座った姉が、眠る2歳の次女をだっこして、静かに揺れていた。娘の頭に頬をあてて、揺れながら目を閉じていた。窓からさしこむ西日がスポットライトのように姉を照らし、なんだか聖母マリア像みたいだった。

階段をのぼる途中でその光景が目にはいり、一瞬、見とれた後で、私はそっと階段を降りて、ひとりで犬の散歩に行った。母になれず、病気を抱えて生きる姉に、せめて、あのぬくもりを、あのやわらかさを、静かに心ゆくまで、味わわせてあげたかった。

 

姉の教え

ときめきエッセイ 第96回 

姉の教え

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

年が明けた。昨年は、全体的にも個人的にも、つらい年だった。年明け早々、哀しい話になってしまうが、年末に、乳がんによる呼吸不全で、11月半ばから入院していた姉の容体が急変し、永眠した。まだ、45歳だった。46歳の誕生日まで、あとたったの7日だった。

30日の通夜、大晦日の告別式を終えて、今は、ただただ、ぼんやりしている。東大病院の12階の病室で姉の付き添いをしながら、二人で過ごした時間を思いだしている。姉の笑顔、姉との会話、酸素マスクをして眠る姉の横顔、病室の大きな窓から眺めた上野公園、旧岩崎邸庭園の銀杏。付き添いを終えて上野駅と歩く夜、不忍池のほとりでふりかえり、いつも見上げた姉の病室の丸い窓。今月の付き添いの予定がすっぽりとなくなり、ただただ、ぼんやりしている。

姉の乳がんが判明したのは6年前だ。その2年ほど前から、体調がすぐれない状態が続いていたが、結婚して生活が変わったことによる精神的なものだと姉は思いこんでいて、心療内科に通院して薬を処方してもらっていた。その上、スペイン語の法廷通訳の仕事が忙しくて大変だったこともあり、結局、精密検査を受けずに無理して働きつづけるうちに、胸がひきつる感覚に気付いた。ようやく検査を受けたら、乳がんで、既に転移していた。そのことを電話で母から知らされたとき、私はまだ生まれてまもない長女を腕から落としそうになった。

手術はせずに、何度も薬を変えての抗がん剤治療やホルモン治療を続けながら、通院で、なんとかこの6年間がんばってきた。このまま、小康状態を維持しつづけてほしいと誰もが祈ったが、昨年の秋口から息苦しい症状が出始め、入院してひと月半で逝ってしまった。

もっと早く精密検査を受けていたら、早期発見、早期治療で、この先、何十年も生きられたかもしれない。美しく、正確なスペイン語で、もっと多くの人々を救えたかもしれない。そう思うと口惜しくて無念で、鉛を飲んだような気分になる。だからせめて、今、これを読んでくれているあなたに真剣に伝えたい「姉の教え」がある。

①たとえ、どんなに仕事や育児が忙しくても、年に一度は健診を受ける。 

②「最近、体調悪いな」と思ったら、先延ばしにせずに、即、受診する。

③それでも改善しなかったら、別の病気も疑って、他病院でも受診する。

この3つを守れば、あなたの人生は飛躍的に伸びる。各市町村でも、年齢性別ごとにさまざまな健診・検診サービスを、行政が無料、または僅かな自己負担額で提供しているので、問い合わせてほしい。

姉は、この3つを守る大切さを、健康にまさる幸せ、財産は存在しないことを、自身の身を持って、家族や親族はじめ、仕事関係者、友人知人、大勢の人々の胸に深く刻みこんでくれた。姉の教えを自らが守り、ひとりでも多くの人々に伝えていくことが、姉のなによりの望みだろうと自分に言い聞かせて、無念さを紛らわせている。

 

師走が来るたびに

2011年12月号

師走が来るたびに

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

早いもので、今年も残すところ、あと十日ちょっとだ。子どもの頃はあれほど長かった一年という歳月が、今は怖いほど早く過ぎる。学生時代、中学、高校生活の3年間が、あれほど長く感じられたのは、それだけ自分自身のなかに蓄積されていた歳月が少なかったからだ。まだ15年間しか生きていない者には、3年間はこれまでの人生の5分の1に値するから、あんなに長く感じるのだろう。

この季節になると、ポストを開けるたびに届くものがある。喪中を知らせる葉書である。10年前までは、同世代の友人知人から来る喪中葉書は、圧倒的に「祖父母」の永眠によるものだった。だが、5年ほど前から、祖父母ではなく「父母」であるケースも増え、そのたびに驚き、そして沈んでしまう。私は3人兄弟の末っ子なので、同世代の友人の親は、たいてい私の親よりも相当若いからだ。

先日も、友人から御父上の永眠を知らせる葉書が届いた。お悔みの手紙を書きながら、私も、もう親がいなくても、おかしくない年になったのだと思う。高校卒業と同時に親と離れて暮らすようになって、もう20年以上たつ。実家は遠く離れているため、会うのは年に2、3回程度だ。独身時代とは異なり、今は夫と子ども達との、自分の「家族」を持っているぶん、実家から埼玉に戻るさいの淋しさもない。「結婚しても親とべったり」な娘は多いらしいが、私と親はそうではなく、実家に帰省している約1週間中、確実に一回はけんかするので、同居も二世帯住宅も、たがいにノーサンキューである。

けれど、それでも私は、親がこの世からいなくなるのが、いい歳をして怖い。

そのときの空虚感を思うと、はたしてそれに耐えられるのだろうかと不安になる。それなら、もう少し親に対する態度をどうにかすればいいのにと自分でも思うが、なかなかできない。先週も、もう10年ほど前に私が東京で購入して、実家に設置したファックスの使い方を、未だによく理解していない老親に、電話でつい怒鳴ってしまった。

 

政治家と医者

2011年11月号

政治家と医者

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

もう四半世紀前、南米で暮らしていた高校生の頃、家族で朝食を食べていたら、現地の新聞を読んでいた父がため息まじりに言った。「こりゃ、鈴木善幸じゃないか…」見ると、当時の日本の首相、宇野氏の顔写真として、数代前の鈴木氏の顔写真が掲載されていた。その後に開催されたサミットの一面記事では、参加国の首相達が笑いあう写真のなかで日本の竹下首相はなんとも淋しい写り具合で、私は高校生ながら、ひどくくやしかった。海外生活の中で「東洋人」というだけで見下され、嫌な思いをすることも多かった分、せめて母国の首相は世界中から敬意を表される存在であってほしかったのだ。

あれから25年、この国の首相はコロコロ変わり過ぎて、もはや海外どころか国民にさえ敬意を表されない存在になった。福島の避難所を訪れた管元首相が、自分達の前を素通りしたことに憤る避難民夫妻に平身低頭するさまをテレビで見ながら、つくづくそう感じた。私自身、この国の首相という立場に特に威厳を感じない。それより「誰でもいいから形だけでも長くいてよ」と切実に思う。総理や大臣が頻繁に変わるのは、なにより効率が悪いし、国際的に恥ずかしい。

病人は誰しも、いい医者にかかりたい。金、女、酒にだらしがなく、失言が多くても、高額でも、名医を希望する。政治家は、国というさまざまな疾病を抱えた生き物を治す医者と同じで、この国も、切実に名医を求めつづけている。時間をかけて、じっくりと治療に専念してくれる名医を。

たとえ、不正が発覚しても、「この政治家なら、時間をかけてこの病を治せる。

降ろしたら、確実に病状は悪化するから降ろせない」。メディアや世間にそう思わせるほどの政治家は、今、この国に存在するのだろうか。テレビを主とするメディアへの露出に頼らずとも、政治家としての能力で勝負できる、国民が心からの敬意を表する政治家は、はたして存在するのだろうか。