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子育てエッセイ

娘のピアノに託す

2011年10月号

娘のピアノに託す

夢浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

先日、田舎から母が上京し、4日間我が家に滞在した。子ども達の保育園の運動会がメインイベントだったが、もうひとつイベントがあった。もうすぐ6歳の長女の電子ピアノの購入である。

今年の5月から、長女はピアノを習い始めた。我が家にある小さいキーボードでの練習にも限界が出てきて、とうとう電子ピアノの購入を決意する。この半年間、さまざまなメーカーの製品を比較検討し、ある程度目星をつけて、先日、母を連れて家族で楽器店に行き、購入した。私はもちろん、母も娘もうれしそうで、いい思い出ができてよかった。

今週の金曜に配送にくるため、現在、置き場所を検討しながら、幸福感にひたっている。ピアノを持つことは、少女の頃からの私の夢だったのだ。私の世代の女性の大半はピアノを習った経験があるが、私にはない。父の仕事で海外転勤を繰り返す環境だったし、当時は、電子ピアノは今ほど普及しておらず、アップライトが主流だったこともある。

今でもピアノを習いたい気持ちはあるが、その余裕はないので、娘のレッスンの付き添いを楽しんでいる。娘が小学生、中学生になっても、できる限り付き添って、先生の説明を聴き、家で練習していたら、ママもある程度は弾けるようになるかもしれない。そんな野望もあって、当初の予定よりも少しランクの高いものを思いきって購入した。

私には、今からひとつの夢がある。約10年前から、音楽家と組んで、自作の詩をギターやピアノの生演奏と共に朗読する「詩の朗読と音楽のコラボレーション」を随時、開催しているのだが、いつか、娘のピアノとコラボしたい。その頃にはもう、今の「ママ、ママ」と甘えてくる娘はどこにもおらず、たがいに距離を置いた関係で、それぞれの生活、人生を生きているかもしれない。それでも、年に一度、私の詩に娘がピアノで寄りそってくれたら、言うことない。

 

(創作童話)おひさまばたけ

2011年10月号

(創作童話)おひさまばたけ

ますだまみ(ファミリー・サポートベビーシッター)

 

きらきら

ぎらぎら

おひさまがまぶしい、なつのあるひのこと。

「ごんた、いくぞ」

「どこにいくの?」

「おひさまばたけだよ」

「えっ、おひさまばたけ?」

「うん、こっちこっち」

「にいちゃん、まってよ-」

だんごむしのごんたは、にいちゃんといっしょに、すから出てくると、草のなかをあるいていきました。

ちょこちょこちょいちょい

ちょこちょこちょいちょい

「にいちゃん、まだつかないの?ずいぶんながいのぼりざかだね」

「ごんた、あともうすこしだ」

ちょこちょこどっこい

ちょこちょこどっこい

「ごんた、ついたよ。ほら、うえをみてごらん。おひさまがいっぱいあるだろう」

「ほんとだ。にいちゃん、こんなにおひさまがいっぱいだから、あついんだね」

ここは、おかのうえのヒマワリばたけ。おおきなヒマワリが、たくさんさいています。

「にいちゃん、せっかくここまできたんだから、おひさまにのぼってみようよ」

「えーっ、あんなにたかいところにのぼるのかい?」

「ぼく、もっとちかくでみてみたい。にいちゃん、のぼろう!」

ごんたとにいちゃんは、いちばんせのたかいヒマワリに、のぼりはじめました。

ちょこちょこぐいぐい

ちょこちょこぐいぐい

「ごんた、がんばれ」

「にいちゃんも、おちるなよ」

ちょこちょこえいえい

ちょこちょこえいえい

「やったー、てっぺんのおひさまにとうちゃく!」

そのとき、つよい風がふいてきました。

ごんたとにいちゃんは、風にあおられて、ひゅーんと、くうちゅうにとばされました。

そして、そのままじめんにおちてしまいました。

ころころくるくるくる

くるくるくるころころころころ

まあるくなった、だんごむしのごんたとにいちゃんは、そのままおかをころがって、おうちまでかえっていったんですって。

 

出典:母の友2011年11月号

 

母子と自転車

2011年9月号

母子と自転車

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

7月半ばに網膜剥離の手術をして以来、まだ車の運転を控えている。夫は外出や地方での個展等で不在が多いため、保育園の送り迎えはほとんど私が自転車で行っている。

前椅子にもうすぐ3歳の次女(15㎏)、後ろ椅子にもうすぐ6歳の次女(22㎏)、計37㎏を乗せて、片道自転車で15分の道のりは相当キツイ…。上り坂は私だけ降りて、ふうふう言いながら押して登る。猛暑もつらいけど、雨に降られると母子そろって悲惨この上ない。

子ども二人を乗せていては傘をさすこともできず、どしゃぶりのなか、ひたすらペダルをこぐ。ただでさえ、惨めで泣けてくる状況なのに、眼に雨水がしみて涙が出る。「もうすぐだからっ。家に着いたら、すぐにお風呂だからっ」と、ずぶ濡れの子ども達に何度も叫びながら、必死でペダルをこぐ。「雨のときはタクシーを使え」と夫は言うが、往復4000円を思うと、なかなか使う気になれない。

先日、自転車をこぎながら、「そろそろ、車の運転できるかなぁ」とつぶやくと、後ろに座る長女がぽつりと言った。「自転車のほうがいいなぁ」。「なんで?」「だって、いろんなものがいっぱい見えるし、近いもん」。

たしかにそうだ。自転車をこいでいると、なにもかもが近い。用水路沿いに咲き乱れる背の高いタチアオイや、水路を泳ぐ鴨たち。初夏の田植えから晩秋の収穫まで、芸術的にその姿や色彩を変えていく田んぼ、畑に並ぶサトイモの葉の傘、民家の庭の木からこぼれるサルスベリ、そして、顔なじみの夕方の散歩中の犬達。

「ママ、見て見てっ、カモちゃん」「あれ、なぁに」「ママ、わんわん」と、いちいちそれらに反応する子ども達に答えながらペダルをこぐ。せがまれて自転車を止め、それらを眺めたり、さわることもある。踏み切り待ちで見た夕焼けがあんまりきれいで、電車が通過した後も、しばらく3人で眺めていたことも。

長女は来年から小学校だ。これからはひとりで自転車に乗って、ママの知らない風景を見つけていくだろう。もう、背中越しに長女とあれこれ話すこともないと思うと、淋しくてしょうがない。

 

放射能被害のなかで

2011年8月号

放射能被害のなかで

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

あの大震災から5ヶ月がたった今もなお、福島第一原発の放射能被害は続いている。子どもを持つ母親達は、「政府の報道はあてにできない」と、自ら購入した計測器で公園などを計測してまわり、それは福島県内に限ったことではない。原発から30キロ以上離れた隣県でも、高い放射線量をマークする「ホットスポット」が各地に出現し、福島とその近県の母親達は、目にはみえない被爆の恐怖に慢性的に疲れている。

私が住むさいたま市から電車で1時間の千葉県柏市には高い地域もあるそうで、柏に住む学友は4月には原発から遠く離れた関西の実家に子ども達を連れて避難していった。もちろん、御主人は仕事があるからひとりとどまっている。パパと離ればなれになっても、幼稚園や小学校が変わっても、被爆の危険や不安のない地域での子育てを選択したのだ。

「自分の意志でとどまる親や大人は、後で被爆による症状が出ても、ある意味、自業自得よ。でもね、決定権を持たない子どもを親の都合で巻き添えにしちゃいけないのよ。子どもに症状が出てから後悔したって遅いんだから」。理系エリートでキャリア志向の彼女が、休職してまで子連れ避難を決めた言葉には説得力があり、いろいろと考え込んでしまった。もし、私が住む地域が高い放射線量をマークした場合、私は主人と離れ仕事も捨て、子ども達を抱えて、遠く離れた場所に生活を移す覚悟と勇気を持てるだろうか。

福島は、主人が鉄道風景画家としての新たな人生のスタートを切った場所である。住いんでいた5年の間に、福島在住の友人知人がたくさんできた。そのほとんどが被爆を恐れながらも、仕事をはじめ、それぞれの事情で福島を離れることができずに住みつづけている。私にできることなどなにもない気がするが、せめて、いちライターとして、福島在住者の健康のための定期的な被爆検査の徹底や、校庭、公園等の洗浄、夏休み中の子ども達のために、安全な屋内遊び場の整備・拡充などを主張しつづけていきたい。

 

イヤダ!ヤメテ!

2011年8月号

イヤダ!ヤメテ!

中舘慈子(株式会社ファミリー・サポート代表取締役)

 

「だいすけがカーサに行きたくないっていうんです。のりちゃんがいじめるからって。こんなことは初めてで心配です。」

だいすけくんのママが心配そうに言いました。

のりちゃんははっきり主張の出来る女の子。いじめをしている様子はまったくありませんが、おっとりしただいすけくんにはかなり苦手なようです。だいすけくんはその場で自分の気持ちを伝えることが出来ずに、家に帰ってからママに切々と訴えたのでしょう。

ごうくんは2歳になったばかり。だいすけくんより1歳小さい男の子ですが、なかなかやんちゃで、時々口より先に手が出ます。

今日はおとなしく立っているだいすけくんをごうくんがひょいと押しました。だいすけくんは、さめざめと泣き出しました。保育者が優しくなだめても泣き続けていて、ほかの活動に入ることも出来ません。

それは、やっと機嫌を直してお茶を飲んだ後の一瞬の出来事でした。保育者が引き離す間もなく今度はかなり強くごうくんがだいすけくんを押したのです。

そのとき、保育者はだいすけくんに穏やかな調子でこう言いました。

「だいすけくん、ごうくんは仲良くしたいんだけど口で言えなくて押しちゃうんだよ。だいすけくん、そういういときは“イヤダ!”“ヤメテ!”と言ってごらん?」

すると、だいすけくんはのどをふりしぼって絶叫しました。

「ギャア~~~~!!」

次にかつて発したことのないほど大きな声で

「イヤダァ~~!!ヤメテェ~~!!」

と、言ったのです。

もちろんごうくんはびっくりしてとびのきました。

だいすけくんも、その後すっきりした顔でゆうゆうとあそび始めました。

だいすけくん、絶叫したときに心の殻がはじけ、外に向かって言葉を発することが出来たのですね。

「人生を拓くことば」を学んだのではないでしょうか。

「イヤダ~!ヤメテ~!」ということで、相手が手を引っ込めることを。勇気を出してはっきりと自己主張することが必要なことを。

(事実に基づいて書きましたが名前は仮名です。)

 

突然の網膜剥離

2011年7月号

突然の網膜剥離

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

今月のエッセイが遅れたのには訳がある。右目が網膜剥離になり、緊急手術したからだ。6日(水)の夕方、「蚊がいる」と思ったのがはじまりだった。黒い虫(蚊)が、自分の目のまわりを飛んでいるように見えたからだ。だが、羽音が全くしないのと、目の動きにあわせて蚊が移動する状況に、これは蚊ではなく、私の右目のなかで黒い点や糸くずみたいなものが見えていることに気づく。(後で知るのだが、これは飛蚊(ひぶん)症と言い、これ自体は深刻な病気ではないそうだが、網膜剥離の初期症状である場合もあるので要注意)。

たぶん、たまった疲れが目に出たのだろうと軽く考え、翌日の七夕の夏まつりで子ども達が着る浴衣の準備をしたり、日々の雑務に追われ、目のことはあまり気にしないまま週末を過ごした。

11日(月)の朝、起きたら、右目の視野の下部分が黒くなっていた。それでも洗濯などの家事をしつづける私に、「早く病院に行け」と主人が怒り、午前中に最寄りの眼科を受診した。さまざまな検査をした末、「網膜剥離」の診断を受け、別の病院で手術するよう言われ、愕然とする。

その時点では、右目の視野も上半分は残っていたので、翌日、紹介状を持ってさいたま赤十字病院の眼科を受診することにして、ひとまず帰宅、保育園に子ども達を迎えに行き、夕飯の支度をしたりと日常の家事をいつも通りこなした。それがいけなかったのか、剥離がいっきに進行してしまい、翌朝、起きたら、右目の視野の4分の3が失われていた。

主人は仕事が休めず、ひとりで病院に向かう。医師から、剥離の進行が速く、網膜のあちこちに穴が開いてしまっていて、かなり難しいタイプの剥離だと言われ、驚愕する。ここでは手術は早くても金曜になる、一日でも早く手術すべきとのことで、急遽、都内の網膜剥離の手術で知られる眼科クリニックを紹介してもらった。紹介状を握り締めて、ひとりで左目の視力だけで電車と地下鉄を乗り継いで、その眼科に向かったときは、やはり心細かった。

そして、13日の水曜、眼球の内側から行う「硝子体手術」を受けた。手術中の御守りは、子ども達が生まれた時、産院が足首に巻く名札だった。幸い、手術は無事終了し、一昨日、帰宅する。まだ右目はよく見えず、当分は「下向き」姿勢を保ちつづけなければならない。

激動のこの一週間に自分でも驚いているが、すぐに手術してもらえて本当に幸運だった。もし、初受診が一日遅れていたら、手術は数日先になり、そのぶん病状が更に悪化して、手術がよりリスクの高いものになった危険は十分ある。それを思うと心底怖く、ぐずぐずと家事や雑務をしつづける私を、「早く病院に行け」と怒鳴った夫に感謝している。

 

母子分離のとき ~小さな両手~

2011年7月号

母子分離のとき ~小さな両手~

中舘慈子

 

2歳のみくちゃんは今日が初めてのカーサ(カーサデルバンビーノファミリー・サポート直営幼児教育施設)です。入ってくると迷わずにおもちゃのたくさんある部屋へ行きおままごとを出して遊び始めました。?!10分くらいたったとき何かに気づいたみくちゃん。そうです。ママがいないことに気づいたのです。生まれたときからいつも一緒にいてくれたママがいない。たいへんです!!

「ママァ~ママァ~」みくちゃんは大声で泣き始めました。保育補助に入っていた私が抱き上げても

「ウェ~イウェ~イウギャ~!!」。

泣き声は号泣に、号泣は叫びに、とどんどん大きくなっていきます。

こんなときには、気持ちを静かにする必要があります。

「みくちゃん、ママいないねえ。悲しいねえ。みくちゃんの気持ちよくわかるよ~」

と話しかけてから、耳元で小さな声で

「だいじょうぶ。ママきっとおむかえにくるよ。だいじょうぶ。ママくるよ。」

と繰り返しました。まだヒックヒック泣いているみくちゃんに壁のところにある時計を見せて

「今10時半でしょう?長い針と短い針が合体して12時になると、ママおむかえにくるよ。12時になったらママに会えるよ。」

と、そっと話しました。

みくちゃんから泣き声に混じってやっと声が出ました。

「・・・じ?・・・じ?」

「そう。12時よ。ママぜったいおむかえにくるから、それまで先生やお友達とあそびましょ。」

するとみくちゃんは小さな両手で私のほっぺたをキュッとつかんで、涙でぐしょぐしょのみくちゃんの顔のまん前に引き寄せました。そして私の目を真剣なまなざしでじっと見つめて

「ママくるの?」

「うん。ぜったいくるよ。おやくそく。12時におむかえにくるからね。」

私もみくちゃんの目をしっかりと見つめて話しました。

その後、みくちゃんはお友達と一緒に机の前に座り、幼児教育タイムも講師や先生たちと楽しく過ごすことができました。思いがけないほどの積極性も見せて。

12時になりました。玄関の外にはみくちゃんの大好きなママの顔が見えます。

「ね!やおくそくまもったでしょ?ママお迎えに来たでしょ?また元気に遊びに来てね。」

みくちゃんは小走りにママのところに走っていきました。

一度だけではなかなか納得できないかもしれません。しかし、2歳児も自分でしっかりと納得したうえで母子分離のパニックから抜け出して、先生やお友達との時間を楽しめるようになっていきます。みくちゃんの真剣な小さな両手の感覚が今も忘れられません。

(事実に基づいて書きましたが名前は仮名です。)

 

素朴で懐かしい福島の風景

2011年6月号

素朴で懐かしい福島の風景

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

海外で暮らす友人からのメールを読むたびに、このたびの東日本大震災についての海外メディアの報道、特に原発に関する報道が、いかに誇張されたものであるかを実感する。日本の「フクシマ」という地名は「原発事故により放射能で汚染された地域」として、「チェルノブイリ」のように、あっという間に世全界に知れ渡り、記憶に刻まれることになった。それがなんともくやしく、やるせない。

福島は、脱サラして鉄道画家としての人生を歩み始めた主人を育ててくれた土地である。鉄道の要衝の地である郡山に移住し、それから5年間、県内各地の鉄道のある風景をスケッチ、撮影してまわるなかで、その素朴であたたかな風景に励まされ、地元の人々からも、たくさんの応援と優しさをもらったという。

私も主人と出逢って以降、結婚して埼玉に住むようになってからも、個展活動等で毎年、福島の各地を訪れている。そのたびに、四季折々の抒情あふれる風景に、薄汚れた心が洗われる思いがする。鏡のように空を映す水田も、彩り豊かな果樹園も、整然と作物が並ぶ畑も、素朴な優しさにあふれ、どこか懐かしい。

私は転勤族の子で故郷を持たず、特にほしいと思ったこともない。でも、福島の農村風景を見ていると、故郷はあるに越したことはないなと素直に思える。そして、主人が福島の風景をもっとも多く描いている理由が、なんとなくわかる気がする。

退社してからこれまでに主人が描いた全国各地の鉄道風景、約270点のうち、福島の風景は90点と、およそ3分の1を占めている。原発に近い富岡町・夜ノ森駅の、満開の桜が寄りそう駅舎、ホームからの眺め。趣のある南相馬市の原ノ町駅。すぐ向こうに海が広がるいわき市の末続駅のホーム。それらの絵を見つめながら、こんなにのどかで美しい町がなぜ、このような苦難を強いられなければならないのだろうと思う。

震災以降、主人と私は今年度の売上の1割を義援金として寄付することに決め、現在、各地で絵と詩画の展示販売会を行っている。義援金による支援だけにとどまらず、素朴で優しく懐かしい福島の風景を、ひとりでも多くの人に知ってもらえたらうれしい。主人のHP「もうひとつの時刻表」のギャラリーでも、たくさんUPしているので、興味のある方はぜひ、見てほしい。

http://www.k4.dion.ne.jp/~tadashim/

 

ピンクの指輪

2011年6月号

「さいたまシニアワーク」での発表から

「さいたまシニアワーク」の「ベビーシッター講座」を受講したシニア世代のシッターさんが大勢活躍しています。
シニアワークで発表された内容を一部掲載します。

 

ピンクの指輪

深澤初江(バンビーノクラブベビーシッター)

 

7ヶ月前、毎回新鮮な気持ちでワクワクしながらシニアワークに通ったことを思い出します。私がこのシニアワークを受講しようと思ったのは、昨年7月にそれまで長年勤めていた幼児教室を退職しまして、さあこれから何をしようかと悩んだ末に、できればこれまでの仕事の経験を活かして社会参加したいという思いからでした。

本格的にはこの4月からレギュラーの仕事が始まりました。私は現在東大宮に住んでおりますが、川口で3歳の女のお子様を週3回近くの幼稚園のバス停にお迎えに出て、その後ご自宅で保育するというものです。私は週3日、後の2日間は他のシッターさんが担当しています。

実際の仕事に就く前に、先方のお母様とお子様と面談がありまして、そのときはどんな方なのかと不安でしたが、お会いして見るととても感じの良い方でした。

早くお子様と仲良くなりたいと思いまして、初対面のときに折り紙でピンクの指輪を作り、ハートのシールを貼って持参しましたら、とても喜ばれました。私の名前は呼びやすいように“ふーちゃん”と呼んでいただくことにしました。

面談から4日後が第1回目のシッティングでした。園バスから降りてからだっこして「お母さんが帰るまでふーちゃんと一緒に遊ぼうね。」と言いながら家に帰りますと、制服のまま室内の滑り台を元気よくすべり、こちらを見てにっこり。ほっとした表情になりました。

5月のはじめには、こいのぼりを作りました。折り紙を切って模様をつけたのですが、英語の幼稚園に通っていて園ではこいのぼりを作らなかったようで喜んでいただけました。

ご自宅の鍵をお預かりしお母様がお帰りになるまで2時間ほどシッティングをしますが、あっという間に時間が過ぎてしまいます。その日によっては、だっこしたまま寝入ってしまうこともあります。

お母様のご要望が“明るく楽しく過ごさせてほしい”ということですので、それにそって接しています。いつもはお母様とゆっくりお話しする時間もないのですが、先日20分くらいですが子育ての悩みなどについてお話してくださいました。大忙しのお母様ですが“がんばりましょ!”とエールを送りたいと思いました。

“ふーちゃん、また来てね”と手を振りながら見送ってくださるお母様とお子様の笑顔に励まされ、ベビーシッターとしてお役に立てる喜びを感じながらこれからも歩んでいきたいと思います。

 

働くってなんだろう

2011年5月号

働くってなんだろう

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

先日、学生時代の友人数名と久しぶりに会う機会があった。ほとんどの女性は子どもがまだ手がかかることもあって、専業主婦である。そして、皆、口をそろえて、「働きたい」と言っていた。話を聴きながら、「収入を得たい」がその最大の理由ではない気がした。

ベビーシッターをしていた頃、保育園とベビーシッターとホームヘルパーに、毎月信じられないほどの額を費やしている家庭がけっこうあった。親しくなった奥様は「私の給料のほとんどは、それで消える。それでもいいからって主人と約束した」と苦笑していた。正直、当時の私は、「そこまでして、なんで働くんだろう」と内心思ったものだ。

でも、2児の母として生きる今は、働く目的は収入だけではないことがよくわかる。子ども達と離れての、妻でもない、母でもない、一個人としての場所や時間、家族以外の人との繋がり、社会との接点や評価を得られるのも、働くことの意義なのだと。

では、専業主婦は働いていないのかといったら、とんでもない。子育ても家事もれっきとした「仕事」である。特に乳幼児の子育ては体力的にも精神的にもキツイ。保育園に預けて外で働くほうが、ずっと楽なんじゃないかと思う瞬間も多々ある。その証拠に、休日の妻のたまの外出で、ひとりで子ども達の相手と世話をした世のパパは、たかだか一日で疲れ果て、内心「あぁ、会社に行ってるほうがずっと楽」と思っている。

それほど大変な仕事なのに、「母親なんだから当然」とされ、収入も評価も終わりもない。ママ友との繋がりはあるが、それがかえって悩みの種になったりもする。そういった不満がたまった挙句、「とにかく外に働きに出たい」になるのではないか。

そんなことを思っていたら、友人が「働くってなんだろう」というテーマのエッセイコンクール(日本勤労青少年団体協議会が主催・厚労省が後援)があることを教えてくれた。早速、応募してみようと思う。興味がある方は、以下のHPに詳細が載っているので見てほしい。

http://www.nikkinkyo.org (日勤協で検索)