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子育てエッセイ

母子分離のとき ~小さな両手~

2011年7月号

母子分離のとき ~小さな両手~

中舘慈子

 

2歳のみくちゃんは今日が初めてのカーサ(カーサデルバンビーノファミリー・サポート直営幼児教育施設)です。入ってくると迷わずにおもちゃのたくさんある部屋へ行きおままごとを出して遊び始めました。?!10分くらいたったとき何かに気づいたみくちゃん。そうです。ママがいないことに気づいたのです。生まれたときからいつも一緒にいてくれたママがいない。たいへんです!!

「ママァ~ママァ~」みくちゃんは大声で泣き始めました。保育補助に入っていた私が抱き上げても

「ウェ~イウェ~イウギャ~!!」。

泣き声は号泣に、号泣は叫びに、とどんどん大きくなっていきます。

こんなときには、気持ちを静かにする必要があります。

「みくちゃん、ママいないねえ。悲しいねえ。みくちゃんの気持ちよくわかるよ~」

と話しかけてから、耳元で小さな声で

「だいじょうぶ。ママきっとおむかえにくるよ。だいじょうぶ。ママくるよ。」

と繰り返しました。まだヒックヒック泣いているみくちゃんに壁のところにある時計を見せて

「今10時半でしょう?長い針と短い針が合体して12時になると、ママおむかえにくるよ。12時になったらママに会えるよ。」

と、そっと話しました。

みくちゃんから泣き声に混じってやっと声が出ました。

「・・・じ?・・・じ?」

「そう。12時よ。ママぜったいおむかえにくるから、それまで先生やお友達とあそびましょ。」

するとみくちゃんは小さな両手で私のほっぺたをキュッとつかんで、涙でぐしょぐしょのみくちゃんの顔のまん前に引き寄せました。そして私の目を真剣なまなざしでじっと見つめて

「ママくるの?」

「うん。ぜったいくるよ。おやくそく。12時におむかえにくるからね。」

私もみくちゃんの目をしっかりと見つめて話しました。

その後、みくちゃんはお友達と一緒に机の前に座り、幼児教育タイムも講師や先生たちと楽しく過ごすことができました。思いがけないほどの積極性も見せて。

12時になりました。玄関の外にはみくちゃんの大好きなママの顔が見えます。

「ね!やおくそくまもったでしょ?ママお迎えに来たでしょ?また元気に遊びに来てね。」

みくちゃんは小走りにママのところに走っていきました。

一度だけではなかなか納得できないかもしれません。しかし、2歳児も自分でしっかりと納得したうえで母子分離のパニックから抜け出して、先生やお友達との時間を楽しめるようになっていきます。みくちゃんの真剣な小さな両手の感覚が今も忘れられません。

(事実に基づいて書きましたが名前は仮名です。)

 

素朴で懐かしい福島の風景

2011年6月号

素朴で懐かしい福島の風景

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

海外で暮らす友人からのメールを読むたびに、このたびの東日本大震災についての海外メディアの報道、特に原発に関する報道が、いかに誇張されたものであるかを実感する。日本の「フクシマ」という地名は「原発事故により放射能で汚染された地域」として、「チェルノブイリ」のように、あっという間に世全界に知れ渡り、記憶に刻まれることになった。それがなんともくやしく、やるせない。

福島は、脱サラして鉄道画家としての人生を歩み始めた主人を育ててくれた土地である。鉄道の要衝の地である郡山に移住し、それから5年間、県内各地の鉄道のある風景をスケッチ、撮影してまわるなかで、その素朴であたたかな風景に励まされ、地元の人々からも、たくさんの応援と優しさをもらったという。

私も主人と出逢って以降、結婚して埼玉に住むようになってからも、個展活動等で毎年、福島の各地を訪れている。そのたびに、四季折々の抒情あふれる風景に、薄汚れた心が洗われる思いがする。鏡のように空を映す水田も、彩り豊かな果樹園も、整然と作物が並ぶ畑も、素朴な優しさにあふれ、どこか懐かしい。

私は転勤族の子で故郷を持たず、特にほしいと思ったこともない。でも、福島の農村風景を見ていると、故郷はあるに越したことはないなと素直に思える。そして、主人が福島の風景をもっとも多く描いている理由が、なんとなくわかる気がする。

退社してからこれまでに主人が描いた全国各地の鉄道風景、約270点のうち、福島の風景は90点と、およそ3分の1を占めている。原発に近い富岡町・夜ノ森駅の、満開の桜が寄りそう駅舎、ホームからの眺め。趣のある南相馬市の原ノ町駅。すぐ向こうに海が広がるいわき市の末続駅のホーム。それらの絵を見つめながら、こんなにのどかで美しい町がなぜ、このような苦難を強いられなければならないのだろうと思う。

震災以降、主人と私は今年度の売上の1割を義援金として寄付することに決め、現在、各地で絵と詩画の展示販売会を行っている。義援金による支援だけにとどまらず、素朴で優しく懐かしい福島の風景を、ひとりでも多くの人に知ってもらえたらうれしい。主人のHP「もうひとつの時刻表」のギャラリーでも、たくさんUPしているので、興味のある方はぜひ、見てほしい。

//www.k4.dion.ne.jp/~tadashim/

 

ピンクの指輪

2011年6月号

「さいたまシニアワーク」での発表から

「さいたまシニアワーク」の「ベビーシッター講座」を受講したシニア世代のシッターさんが大勢活躍しています。
シニアワークで発表された内容を一部掲載します。

 

ピンクの指輪

深澤初江(バンビーノクラブベビーシッター)

 

7ヶ月前、毎回新鮮な気持ちでワクワクしながらシニアワークに通ったことを思い出します。私がこのシニアワークを受講しようと思ったのは、昨年7月にそれまで長年勤めていた幼児教室を退職しまして、さあこれから何をしようかと悩んだ末に、できればこれまでの仕事の経験を活かして社会参加したいという思いからでした。

本格的にはこの4月からレギュラーの仕事が始まりました。私は現在東大宮に住んでおりますが、川口で3歳の女のお子様を週3回近くの幼稚園のバス停にお迎えに出て、その後ご自宅で保育するというものです。私は週3日、後の2日間は他のシッターさんが担当しています。

実際の仕事に就く前に、先方のお母様とお子様と面談がありまして、そのときはどんな方なのかと不安でしたが、お会いして見るととても感じの良い方でした。

早くお子様と仲良くなりたいと思いまして、初対面のときに折り紙でピンクの指輪を作り、ハートのシールを貼って持参しましたら、とても喜ばれました。私の名前は呼びやすいように“ふーちゃん”と呼んでいただくことにしました。

面談から4日後が第1回目のシッティングでした。園バスから降りてからだっこして「お母さんが帰るまでふーちゃんと一緒に遊ぼうね。」と言いながら家に帰りますと、制服のまま室内の滑り台を元気よくすべり、こちらを見てにっこり。ほっとした表情になりました。

5月のはじめには、こいのぼりを作りました。折り紙を切って模様をつけたのですが、英語の幼稚園に通っていて園ではこいのぼりを作らなかったようで喜んでいただけました。

ご自宅の鍵をお預かりしお母様がお帰りになるまで2時間ほどシッティングをしますが、あっという間に時間が過ぎてしまいます。その日によっては、だっこしたまま寝入ってしまうこともあります。

お母様のご要望が“明るく楽しく過ごさせてほしい”ということですので、それにそって接しています。いつもはお母様とゆっくりお話しする時間もないのですが、先日20分くらいですが子育ての悩みなどについてお話してくださいました。大忙しのお母様ですが“がんばりましょ!”とエールを送りたいと思いました。

“ふーちゃん、また来てね”と手を振りながら見送ってくださるお母様とお子様の笑顔に励まされ、ベビーシッターとしてお役に立てる喜びを感じながらこれからも歩んでいきたいと思います。

 

働くってなんだろう

2011年5月号

働くってなんだろう

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

先日、学生時代の友人数名と久しぶりに会う機会があった。ほとんどの女性は子どもがまだ手がかかることもあって、専業主婦である。そして、皆、口をそろえて、「働きたい」と言っていた。話を聴きながら、「収入を得たい」がその最大の理由ではない気がした。

ベビーシッターをしていた頃、保育園とベビーシッターとホームヘルパーに、毎月信じられないほどの額を費やしている家庭がけっこうあった。親しくなった奥様は「私の給料のほとんどは、それで消える。それでもいいからって主人と約束した」と苦笑していた。正直、当時の私は、「そこまでして、なんで働くんだろう」と内心思ったものだ。

でも、2児の母として生きる今は、働く目的は収入だけではないことがよくわかる。子ども達と離れての、妻でもない、母でもない、一個人としての場所や時間、家族以外の人との繋がり、社会との接点や評価を得られるのも、働くことの意義なのだと。

では、専業主婦は働いていないのかといったら、とんでもない。子育ても家事もれっきとした「仕事」である。特に乳幼児の子育ては体力的にも精神的にもキツイ。保育園に預けて外で働くほうが、ずっと楽なんじゃないかと思う瞬間も多々ある。その証拠に、休日の妻のたまの外出で、ひとりで子ども達の相手と世話をした世のパパは、たかだか一日で疲れ果て、内心「あぁ、会社に行ってるほうがずっと楽」と思っている。

それほど大変な仕事なのに、「母親なんだから当然」とされ、収入も評価も終わりもない。ママ友との繋がりはあるが、それがかえって悩みの種になったりもする。そういった不満がたまった挙句、「とにかく外に働きに出たい」になるのではないか。

そんなことを思っていたら、友人が「働くってなんだろう」というテーマのエッセイコンクール(日本勤労青少年団体協議会が主催・厚労省が後援)があることを教えてくれた。早速、応募してみようと思う。興味がある方は、以下のHPに詳細が載っているので見てほしい。

//www.nikkinkyo.org (日勤協で検索)

 

原発という戦場

2011年4月号

原発という戦場

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

先日の夜、友人から涙声で電話があった。どうしたのか訊ねると、ご主人が3日前から、仕事で福島第一原発の現場にいるという。その行き先を聞いた瞬間、砂を食べたような胸苦しさが押し寄せた。「そうなんだ…」それ以上、何も言えず、重苦しい沈黙がしばらく流れる。

彼女のご主人には結婚式も含めて何度か会ったことがある。「素朴」という言葉がよく似合う、メーカーに勤務する理系エリートだ。こんな身近な人が、あの恐怖の現場にいるなんて、信じられない思いだった。

「…行かないでくれって言ったのよ」沈黙を破ったのは彼女だった。「でも、俺だって行きたくないよって怒鳴って、一週間分の着替えの荷物つくってくれって言われて、嫌だって言ったら、自分で荷物まとめて、出てっちゃったのよ」彼女の泣き声を聞きながら、その情景がありありと浮かんで、やるせない気持ちになった。

「子どもは?」ふと心配になって聞いた。彼女には10歳の息子がいる。「実家。私が泣いてたら、なんでって思うでしょ。でも、パパはあそこにいるなんて言えないし、言いたくない」「…うん」それしか言えず、仕事の邪魔をしてごめんと詫びる彼女に、いくらでも聞くから気持ちを話してくれと促した。内心、自分の夫が原発に関連した仕事じゃなくてよかったと、心底思っている罪悪感もあった。

「一度、夫から電話があって、けんかになったら、現場には独身の若い男も大勢いるんだよって言われたわ。これから子どもをつくる奴らは、被ばくが何倍も怖いんだよって…」。彼女の話はリアルで、その分怖い。電話を切った後、ひんやりと感じた。「なんだか戦争みたいだ…」。

今、原発の現場にいる人達はまぎれもなく、国を守るために命がけで戦う戦士なのだ。職場からの電話一本で現場に向かわざるを得ない会社員達は、かつて召集令状1枚で戦場にかりだされた兵士に似ている。

安全地帯にいる私が、彼らに対してできることなどなにもない。ただただ、無事を祈ることと、心が欲しくてやっているからの感謝と深い敬意を表することしか。そんなもの彼らは求めていないし、何かのではないことくらい、わかってはいるが。

 

 

大震災で学んだこと

2011年4月号

大震災で学んだこと

古島直子(バンビーノ・クラブチーフサポーター)

 

先日東北関東大震災のとき、4歳のお子様のシッティング中でした。エレベーター前、10階で地震発生!地震の揺れにお子様は「キャツキャツ」と笑い、地震の怖さを知らず楽しんでいる様子でした。その時、お子様の命を守ることと同時に地震後のお子様の後遺症の心配が頭をよぎりました。

お子様には「絶対手を離さないこと」「非常階段でおりて外に出ること」を伝え、階段を下りて無事避難することができました。お母様に連絡をしましたところ「地震がおさまったら自宅へ戻ってください。後はお任せします。」と、言われました。マンションロビーで待機中もロビーのシャンデリアがゆれていることを何度も確認しながら、お子様に紙とボールペンを渡しました。「ママとパパにお手紙を書くね!」と集中して書き始めました。

ママには「ママだいすきだよ。そとにいるときじしんこわかったよ。」

パパには「した(ロビー)にいるよ。パパだいすき。」

と、それぞれ似顔絵付きで描かれていました。お父様とは連絡がつかなかったため、自分の居場所を手紙で伝えていたのかもしれません。

少しでもリラックスして休ませてあげようと「何があっても絶対に私は側にいるし離れないから安心してね!」と言って一緒に座っているソファーに横になったお子様に私の上着をかけました。「あったかい。」と、とても気持ちよさそうに上着の中にもぐったり顔を出したりと無邪気な笑顔を見せてくれました。「今日はソファーがおうちだね。ずいぶん小さなおうちだね。」と声をかけ、密着しながらお子様がリラックスできていることを感じました。

余震が続く中、お子様に「なんでおうちにかえらないの?」と聞かれ「大きな地震はもう来ないけれど小さな地震はまた来るかもしれないからまだロビーにいたほうがよいと思うよ。私の言うことは間違っていないから信じてね。」と答えました。お子様はパニックになることも泣くこともなく私をただ信じて頑張ってくれました。

後日お母様から「地震後、何も後遺症もなくよかったです。ありがとうございました。」とお言葉を頂き、心配していたことにならず本当に良かったと思いました。よそのお子様は泣いたあと吐く、一人でトイレに行けなくなることなどあるようでした。

大震災を通じて、ベビーシッターの仕事をするうえで大切なことを改めて考えさせられました。子どもの気持ちを感じ取る、子どもに安心と安らぎを与える、一人の人間として人格尊重する、信頼関係を築く、冷静に判断し対応することだと思いました。

日常生活の中でもお子様の情緒が乱れてしまうことがあると思います。年齢に関係なくお子様は言葉に出さなくても何かを相手に伝えようとする能力を持っています。それを感じ取り受け止めて不安を取り除いてあげることで健やかに成長されていく手助けとなることが一番大切なことのように思います。

今回の地震でお子様との絆がさらに強まりました。お子様の命を守るということがどういうことなのか、気づくことができました。さらに忘れてはいけないことは使命感だと強く思いました。

 

大震災のなかで

2011年3月号

大震災のなかで

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

先日の昼すぎ、自宅で確定申告の書類作成を主人としていたら、グラッグラッと強い揺れを感じた。「うわっ、地震だ」「けっこう大きいよ」言いあっているうちに、立っていられないほどの激しい揺れが押し寄せる。ガタピシとガラスがきしみ、棚からさまざまな物が落ちる音に、思わず悲鳴をあげた。二人で桟につかまりながら、子ども達はより耐震性の高い、安全な保育園で良かったと思った。

激しい揺れはおさまったものの、余震がつづくなか、ひとまず外に出る。昨年度、自治会長をしていたので把握している、同じマンションに住む高齢者宅の安否確認を主人と手分けして行う。

地震で急遽、全校帰宅になったのか、すぐ近くの中学校に通う生徒達がぞろぞろと帰ってきていた。一階のドアの前で女子中学生が不安げにたたずんでいる。「どうしたの?」声をかけると、ぽろぽろと涙をこぼして、「中でネコが死んでるかもしれない」と言う。親は働いているので、夜まで帰ってこないそうだ。少女を励ましてドアを開けさせる。幸い、ネコは無事だった。いっきに表情が明るくなった彼女に、私達の部屋番号を告げ、怖くなったら来るよう言って、ひとまず自宅に戻る。

約10分後、強い余震があり、さっきの少女が青ざめた顔でやってきた。すぐに家にあげ、いっしょにおやつを食べる。こんなに余震があいつぐ状況にも関わらず、全校帰宅させる学校の判断に疑問を感じた。今は共働き家庭も、ひとり親家庭も多いので、「帰宅しても、ひとり」の子どもは少なくないだろうに…。電話がつながらない中、親も子どもが家にひとりでは不安で気が気ではないだろう。

夕方には娘達も保育園から戻り、テレビの地震報道に釘付けになりながら、余震のたびに5人で肩を寄せ合って過ごした。娘二人は、はじめは照れていたくせに、いつのまにか少女になついている。これまで、同じマンションとはいえ全く関わりのなかった少女と、我が家のリビングでこんなに親しく過ごしていることが、不謹慎だが、少しうれしかった。

夜7時頃、少女の母親が迎えにきて、涙をこぼしながら何度もお礼の言葉を口にする。笑顔で応対しながら、30年以上前、私が見知らぬ大人に助けられ、夜遅く家に送り届けてもらったときの、泣きながら何度もお礼を言っていた母の姿を思いだしていた。「連鎖」という単語が頭をよぎる。いつかこの少女も、人の子を守ったり助けたりすることがあるだろう。そのときはやはり、泣きながらお礼を言っていた、かつての母の姿を思い出すのだろうか。

 

「話す」という奇跡

2011年2月号

「話す」という奇跡

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

おすわりもあんよも、すべてが平均よりずっと遅かった次女だが、言葉の発達もすこぶる遅い。もう2歳4カ月になるというのに、未だに「わんわん」「ぐーぬー(牛乳)」などの日常の単語を、赤ちゃん的発音で20個ほど言える程度だ。言葉で自分の思いをしっかり伝えられないもどかしさゆえか、最近の次女はすぐに高音でぎゃぁぎゃぁ泣き叫ぶ。なにを求めているのか、さっぱりわからないときは、こっちもイライラしてしまうし、いつまでも機嫌が悪いと具合が悪いのではと不安になってくる。

「…おりちゃん(次女)、早くおしゃべりできるようになるといいねぇ」。

先日、ため息まじりにつぶやいたときのことだ。

「ちがうよ、ママ。おりちゃん、おしゃべりいっぱいできるよ」

すぐそばで、お絵描きしていた5歳の長女が、あっさりと言った。

「そうなの?」驚いて聞きかえすと、こっくりとうなづく。

「さっちゃん、きのう、おりちゃんといっぱいおしゃべりしたよ。

でもぉ、目が覚めたら、おりちゃんはくうくう寝てた」。

…なんだ、夢のなかの話だったのか。がっくりしつつ、笑ってしまう。毎日あんなにけんかしているくせに、夢のなかでもいっしょに遊んでいるんだから、姉妹って本当におもしろい。もしかしたら、その時間、次女も同じ夢を見ていたのかもしれない。夢のなかで、二人はどんな話をしたのだろう。長女に聞くと「わすれちゃった」と笑っている。次女が流暢に話すさまなんて、奇跡のようで想像できない、と思ったところで、ふと思い出したことがある。

長女が赤ちゃんだったときも、数年後、この子が普通に話していることが信じられず、まるで奇跡のように感じていたのだ。それが2歳になる頃からごにょごにょ話し始め、今ではうんざりするほどの「おしゃべり~な」である。「お願いだから、少し静かにしてよ」と口に出してしまうこともしょっちゅうだ。かつては奇跡のように思えたことが、めでたく現実になったというのに、親なんて、つくづく勝手なものだと思う。

来年の今頃は、次女もぺらぺらしゃべっていて、私はそれにも辟易しているのだろうか。今の私にとって、それは想像すらできないほど、奇跡に近いことなのに。

 

 

 

お昼寝中が「勝負」

2011年1月号

お昼寝中が「勝負」

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

年末年始の一週間、主人が地方の仕事で留守することになった。その間、伊豆の実家に帰省しようかと母に電話したら、姉夫妻と兄夫妻がそろって来るので布団が足りないと言われ、淋しく電話を切った。

保育園も休みの1週間、ひとりで5歳と2歳の子の世話と相手を一日中し続けるのは、実にしんどい。特に次女は、今がもっとも聞き分けの悪い時期で、すぐに泣き喚いて自分の主張を通そうとする。そのうるささといったら、耳がどうにかなりそうで、結局、折れてしまう。

家の中では兄弟げんかが絶えず、私も発狂しそうになるので、毎日、朝食、洗濯、掃除を済ませると、どんなに寒くても、とにかく外に出た。公園、お弁当、買い物で約4時間を費やし、帰宅後、昼寝へと直行させる。ポイントは外でお昼を済ませることだ。これによって、帰宅後すぐに、しかも長く寝てくれる。

添い寝しながら左右の子ども達の寝息が安定すると、私はむっくりと起き上がり、「さぁ、勝負」とばかりに原稿を書き始める。和室で次女がむずがる声がすると、すかさず飛んでいって添い乳をし、少しでも眠りをひきのばす。2時間がたつ頃には、長女がむっくり起きてきて、いつも妹が独占しているママのひざに乗っかってくる。

ムギュムギュチュウを5分ほどしたあと、仕事机の隣にちゃぶ台と折り紙とお絵かきセットを用意して、「おりちゃん(次女)が起きるまで、静かに遊んでね」と懇願し、もう1時間ほど稼ぐ。合間にしょっちゅう、長女の絵を見てはしっかりとほめ、意見を述べるのも忘れない。

そして5時になる頃には、とうとう太っちょ怪獣がドシン、ドシンと起きてきて、私に体当たりしてくる。コンセントを引きぬかれる危険があるので、私はすぐに仕事をあきらめ、PCを消す。続きは、深夜だ…。ため息と共に、怪獣を抱

きあげて授乳する。保育園が始まるのが待ち遠しい自分に、深い罪悪感を感じながら。

 

『娘の夢』

2010年12月号

『娘の夢』

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

来月、長女は5歳になる。誕生日を心待ちにする娘に、「おおきくなったら、なにになりたい?」と聞いてみた。昨年は「めろんやさん」で、その子どもらしさが微笑ましかったが、今年は、なんと「ほいくえんのせんせい」だった。その一気に大人びた返答に驚き、思わず「なんで?」と聞いたら、「だって、ほいくえんのせんせいが大好きなんだもん」とすまして答える。その単純明快な理由に笑いながら、「さっちゃんは、どんな先生になるの?」と聞いたら、娘はたらたらと話し始めた。

「あのねぇ、泣いてる子がいたら、しゃがんで『どうしたの?』ってだっこしてぇ、けんかしてるお友達がいたら、『そおかぁ、そおかぁ』ってふたりのお話聴いてぇ、『じゃぁ、ごめんねしよっかぁ』って言ってぇ、ひとりぼっちの子がいたらぁ、『いっしょにあ~そ~ぼ』って言ってぇ…」

その言葉を聴きながら、なんだか目の奥がツーンとしてきた。娘が言うことは、きっとすべて、先生達が毎日園児に、そして娘にしてくれてきたことなんだろう。今年の春から夏にかけて、「仲間はずれにされるから」「意地悪されるから」と、通園したがらない時期があった。娘にも悪いところはあるのだろうし、子どもの話をどこまで信じていいものやら不安もあったが、送り迎えのさいに、時々、娘の話を先生に伝えていた。

先生が対処してくれたのだろう、秋になる頃には状況も改善したようで、笑顔で通園するようになった。もし、ひとりぼっちのままほったらかされていたら、保育園の先生になりたいとは思わなかっただろう。

近い将来、娘が学校の人間関係に悩むこともあると思う。そんなときは、保育園の先生になりたいと思った幼い頃の自分を思い出してほしい。そして「自分が被害を受けないよう、うまく立ち回る」のではなく、保育園の先生が日々、園児に降りそそいだ優しさを、少しでも他者に降りそそげる子になってほしい。