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子育てエッセイ

『私学VS公立』

2010年11月号

『私学VS公立』

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

この2カ月間、関東の私立中学校の入試説明会をいくつも取材し、リポートを書く仕事をしている。私は小・中・高とも公立に通っていたし、子ども達も、そのつもりだ。本音を言うと、子ども達本人より母親達のほうがヒートアップしがちな小・中学校の「お受験」には、あまりいいイメージを持っていない。だからこの仕事は気が進まなかったが、名門私立校の校舎を一度見学してみたいというミーハーな動機で引き受けた。

かれこれ10校近くの入試説明会に行ってきたが、私学がこれほどお金がかかるとは知らなかった。学校によって多少の差はあるが、特に初年度は、入学金、制服関係、授業料、施設(維持)費、旅行積立費、鞄・教材費、その他諸費用などで100~130万近く支払うのである。特に施設(維持)費と海外研修費が高く、正直、こんなに立派な造りのホールも、2週間の海外研修もいらないのに、と思ってしまう。

だが、今回の仕事をつうじて、私学ならではの良さも少なからず実感した。最大の長所は、「いじめ」や「不登校」などの、生徒達の人間関係の問題への対応姿勢である。「いじめは『ある』という前提で対応する」という教員の言葉が心強い。私学においては、生徒が自殺なんてしたら学園存続の危機に関わるため、必然的に真剣に取り組むのだろう。

実際、「絶対私学派」の保護者には、この点を第一理由とする者も非常に多いという。学費捻出のためにパートに出る母親も少なくないそうで、「私学=裕福な家庭の子弟」とは限らないことも、今回はじめて知った。生活指導の徹底、塾に頼らない密度の高い授業、充実した補習カリキュラムなども、私学の魅力のひとつだと思う。

かくして、我が家の教育計画は、「高校までは基本公立。だが、もし、子どもが切実に転校を希望したら、私立への編入もやむを得ない。そのためにも、今からお金は貯めておかねば」となっている。

 

『病児・病後児の保育』~ベビーシッターの役割第2回~

2010年10月号

『病児・病後児の保育』~ベビーシッターの役割第2回~

中舘慈子

 

「子どもが風邪で熱を出した!」

「水疱瘡がもうかなり回復しているのに、感染の恐れがあるというのでまだ医師の許可が出ず、保育所に行かせられない。」

保育所に子どもを預けながら働いているご両親は、子どもが病気になったとき、急に休んだり、長期にわたって休んだりすることが出来ず、とても困ります。今までの行政の施策は、「箱物」すなわち、病児保育所を増設するという発想でした。保育施設の建設費や維持費、医師や看護師などの専門職の配置などにどれほど高額な税金が使われているのでしょうか?感染症も含む病児に対応するためには個々の病気ごとに保育室が必要でしょうし、保育士もそれに伴って配置する必要があります。

そもそも、病児の保育に施設型保育が必要なのでしょうか?病気の子どもにとって、過ごす場が施設である必然性があるのでしょうか?

病児に関する研修を受けたベビーシッターが自宅に伺うという訪問型保育であれば、巨額な施設整備費はかかりません。また、病気が急変した場合などはお子様の日常をよく知っている主治医またはベビーシッター会社の提携している病院と連携することで、専門職が常駐している必要はありません。

何よりも子どもにとって、家庭は最もリラックスできる場、安心できる場です。病気のときだからこそ、自宅でくつろいで過ごすことが必要なのではないでしょうか?

病気は子どもの「疲れた」というメッセージだと思います。ウィルスや細菌が体内に入って発病するときは、子どもの体調そのものが優れないときだと思います。

訪問型保育であるベビーシッターに行政からの助成があり、利用料金の負担が軽くなれば、もっと手軽に利用できる制度です。必要とされる人件費のみ助成するということで行政の負担も大幅に軽減されるはずです。

2010年6月に作成された「子ども・子育て新システム」には「病児・病後児保育サービス」に「訪問型保育」の新設が検討されています。ぜひ、多くの行政がここに目を向けて、真の意味の「社会全体で子育てを支える仕組みづくり」を目指してほしいと切に思います。

 

『母子家庭とシッター』

2010年10月号

『母子家庭とシッター』

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

前回のエッセイで、児童虐待防止に向けた署名活動について紹介したところ、驚くほどの反響があった。読んだ方から、「署名後、友達にあのエッセイがUPされているページのアドレスをコピーしてメールしたら、『即、署名して、自分も友達に送ったから』と返事が来ました」と言われたとき、大阪の事件以来、ずっと心にたまっていたずっしりと重たい砂が、ようやく少し取り除かれたような気がした。「子ども達を救わなければ」という切実な思いが、まるで終わらないリレーのたすきのように、次へ次へとつながって、枝葉のように広がって、社会が変わっていくような感覚を味わい、久しぶりに本当にうれしかった。勇気を出して、書いてよかったと思った。掲載してくれたことを、心から感謝している。

さまざまな意見交換をつうじて、現在、強く感じていることがある。それは、日本も今後、欧米のように、母子家庭が増え続けていく流れは避けられない現実であり、母子家庭支援のさらなる整備が、さしせまって求められているということだ。日本の母子家庭は、同居、もしくは近くに住む母親の実家が、子育てや経済面など、あらゆる面で支えているケースが非常に多い。だが、親を頼れずに、子どもを抱えてひとりで苦しんでいる母親も大勢いるわけで、そういう母親に「恋人(男)」としてではなく、「母親」のような立場で接し、支えてくれる存在が、各地域に必要だと思う。そのためにも、母子家庭を対象にしたベビーシッター(おばあちゃん世代が好ましい)の利用料金の助成事業が実現すればと思う。

子育てにおいて後ろめたい思いを抱えている母親の多くは、指導されたり、責められるのを恐れて、児童相談所などの行政職員との関わりを拒絶し、訪問されると居留守を使う。だが、シッターは、お金を払う側である母親のほうが、いわば「上」の立場で、しかも「いち民間人」なので、母親も身構えず、友人関係や信頼関係も築きやすいだろう。

シッターは、子育て中の家庭に上がりこんで、子どもと数時間過ごすという、もっとも、子どもの生活環境を把握しやすい職業であり、虐待の未然防止や早期発見のカギを握る存在だと感じている。

 

『虐待を防ぐ』~ベビーシッターの役割第1回~

2010年9月号

『虐待を防ぐ』~ベビーシッターの役割第1回~

中舘慈子

 

浅田さんのエッセイを見て、書かなくてはならない気持ちになりました。ベビーシッター事業を行っている立場から、何回かにわたってベビーシッターの役割について思いを綴ってみます。

自治体が産前産後のお母様のベビーシッター料金を助成する制度があるのをご存知ですか?世田谷区の「さんさんサポート事業」、川崎市の「産後家庭支援ヘルパー事業」、渋谷区の「にこにこママ」などの産前産後のサポート事業です。自治体によって利用期間、自治体からの委託費(利用者の負担額)はさまざまですが、誰でも気軽にベビーシッターを利用出来る制度です。

たとえば、世田谷区の場合は産前1ヶ月から産後7ヶ月まで。1回2時間のサービスを3回まで無料で受けられるものです。これは「子どもたちの健やかな成長を願い、子育て家庭の産前・産後の負担を軽くすること」を目的とした事業です。しかし、実はもう一つの目的があります。それは、「児童虐待防止」という目的です。

出産後の家庭に入り、サポートをしながら母親や家庭の実態を知る、ということは虐待防止のための一つの有効な手段だと思います。「家庭」という世界はいわば密室であり、なかなか入り込むことが出来ません。また、日本では家庭に第三者が入り保育を依頼する文化、ベビーシッターサービス利用に対する根強い抵抗感がまだまだ残っています。

しかし、自治体が行う事業だから、そしてベビーシッターサービス料金の一部または全額を自治体が負担するから、「利用して見よう」という気持ちにつながるのではないかと思います。産後は心身ともにだれかの助けを得ないと乗り切れないときです。このとき心身ともに余裕を持てることが、「子どもがかわいい」という気持ちにつながります。ベビーシッターは赤ちゃんの沐浴やお世話、家事支援などを通じてお母様を応援します。

子育てに不安を持たないお母様はいないといってよいと思います。身近な子育て支援者(ベビーシッター)が、「大丈夫ですよ」「それでいいんですよ」と、ありのままのお母様を受け止めることで、子育てに自信を持つことが出来るでしょう。

また、「赤ちゃんにどう接してよいかわからない」というような場合、実際にベビーシッターが赤ちゃんと関わっている様子を見ながら、「こうやってあやせばいいのだ」「赤ちゃんが泣いたときはこうすればよいのだ」ということを学ぶことが出来ます。

お母様に心の余裕ができること、そして第三者の目があるということが、虐待を未然に防ぐのではないでしょうか。

虐待は、家庭という密室の中で行われます。虐待を防止するには、家庭の子育てに信頼できる第三者を入れて、子育ての社会化を図る必要があります。

まず、産後間もないときからベビーシッターを気軽に利用できる制度があらゆる自治体でできること、いずれ、すべての家庭のドアが開かれ、良質なベビーシッターが訪問保育を定期的に行う制度が出来ることを心から待ち望んでいます。

 

『署名という一歩』~児童虐待防止に向けて~

2010年9月号

『署名という一歩』~児童虐待防止に向けて~

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

このひと月というもの、精神的にやや不安定な状態が続いている。大阪の2児遺棄事件の報道を聞いて以降、ゴミためと化した狭くムシ暑い部屋の中で、飢えと渇きで苦しんでいる幼子二人の様子が、弟の世話をしながら必死で助けを求めて泣き叫ぶ3歳の姉の姿が、四六時中、脳裏に浮かんでくるようになってしまったのだ。そのたびに胸が潰れそうになり、「こうしていたら、ああしていれば、救えたのでは」という「たられば論」を、頭の中でぐるぐるぐるぐる、何度も何度も考えつづけて夜も眠れず、しまいには自分の子どもの世話しかしていないことへの罪悪感に苦しむようになってしまった。突然、泣きだす私に、子ども達までが動揺して、夫からは心療内科の受診を勧められた。

だが、最近になって、ただ加害者や行政を非難、罵倒したり、精神のバランスをくずしたり、「もし自分が隣に住んでいたら、後に不法侵入で訴えられてもいいから、ベランダから侵入したのに…」と悔しがりつづけているだけでは、何の意味もないことをようやく理解した。そして、虐待の事件が報道されるたびに、自身の精神状態が乱れるのを恐れて、即テレビを消し、極力目と耳を塞いで過ごしてきた、これまでの自分の無責任さにも気づかされた。虐待問題を改善するための具体的な行動を何ひとつしてこなかった私も、加害者のひとりなのだ。

自分になにができるか調べたところ、先日、神戸市灘区在住の60代の主婦、藤原八重子さんが発起人の署名活動を知った。藤原さんは、相次ぐ虐待報道にじっとしていられず、ただ胸を痛めているだけではだめだと請願書を作成、今年5月から地域で草の根的に署名活動をはじめたところ、4カ月弱で53000人を突破した。現在、個人、団体、メディア等の賛同と協力の中、全国的な運動へと発展しており、集まった署名は、請願書とともに次期通常国会に提出される。

請願書では(1)行政が通報に対して迅速に対応できる体制づくり(2)健診を受けない児童への家庭訪問の完全実施(3)児童相談所の増設、増員(4)子どもが安全に保護される体制の整備(5)体制が充実されるための財源の確保、の5項目を求めている。

悲惨な虐待報道のたびに、怒りと哀しみで胸が苦しくなり、「なんとかしたい」「でも、自分になにができるだろう」という切実な想いを抱く人は大勢いる。でも、私を含め大半の人は、結局、何もせずに終わってしまう。そんな現状を変える一歩に、この署名活動への参加があると思う。少しでも関心のある方は、下記のURLをぜひご覧いただきたい。

「児童虐待の防止に向けた体制強化を求める署名」
//www.shomei.tv/project-1545.html

 

 

『たんぼという芸術』

2010年8月号

『たんぼという芸術』

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

私が住む地域は、もう、ずいぶんと家が建てこんでいるが、かなり幅の広い用水路が流れ、車で10分も走ると広大な「見沼たんぼ」が一面に広がる。家から、徒歩15分ほどの距離には、広大とまではいかないがテニスコート10面くらいのたんぼがまだ残っていて、今は照りつく太陽の下、稲の緑が目に痛いほどまぶしい。夕方、自転車の前と後ろに娘二人を乗せて保育園から家に帰る道中、約3分間、このたんぼのわき道を走る。住宅地の中を通る別の近道があるのだが、遠回りでもこのたんぼ沿いの道を走る。そして、ときどき、自転車をこぐのをやめて、しばらくたんぼを見つめている。

この道を毎日のように通るようになって1年、季節ごとに見事に姿を変えていく「たんぼ」の美しさに、私は完全にはまっている。たんぼはまぎれもない「芸術」だと思う。初夏、一面に水を張って、鏡のように空をうつす水田、まるで幾何学模様のように整然と並んで、水田から顔をのぞかせる苗の列、かわいい苗がたくましい緑の稲へと日々成長し、水田のすきまがどんどんなくなっていく様子、風がふくと稲が波のようにそよぐさま、そして秋の収穫時のわらぼっち、どれをとっても言葉にできない美しさだ。

日中の太陽の下で輝くさまもいいけれど、夕方の、茜や薄紫、オレンジ色の空の下に広がる少し哀しげなたんぼも、なんとも抒情的でたまらなく好きだ。私が自転車をこぐのをやめて、しばらくたんぼに見とれていると、以前は、「ママ、どうしたの?」と聞いてきた長女も、最近はなにも言わずに後ろの椅子に座ったまま、いっしょにたんぼを見つめている。前椅子に座った次女は、「あっ、あっ」とかわいい人差し指でたんぼを指さして、いつも、なにか言いたげである。子ども達が大人になる頃には、日本の農業はいったいどうなっているだろう。たぶん、このたんぼはもう無い。農家の苦労をなにも知らない立場でえらそうなことは言えないが、将来、大都市の高層オフィスで働くようになっても、どうかこのひとときを覚えていてほしい。

 

『教習所通いをつうじて』

2010年7月号

『教習所通いをつうじて』

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

いい歳をして、車の運転免許を持っていない。私の世代で、この年になるまで免許を持たない人は、ごく少数派なようで、持ってないことを告げると「なんで?」と驚かれたりする。その理由のひとつが、子供時代の、父親の運転する車での2度の事故体験だ。無傷で済んだものの、車が横転した時の恐怖は30年たった今でも覚えており、「運転=怖い」という思いはずっと消えない。しかも私は、なにか考え事や想像をしたり、過去のふりかえりをはじめると、すぐにぼんやりして視線も意識も遠くに行ってしまうという、非常に運転に適さない性質なので、たぶん、このまま、車の運転とは縁がないだろうと思っていた。

だが、とうとう運転せざるを得ない状況になってきた。理由はひとつ、主人が留守のさい、天候が非常に悪い時の子ども達を連れての外出が、あまりにも大変だからだ。自分だけなら、どうなろうとへっちゃらだが、子どもが雨でずぶぬれになったり、身体が冷え切ってしまうのは耐えられない。しかも、我が家の娘達はやたらと風邪をひきやすい体質ときている。約1年悩んだ末、一大決心をして免許をとることになった。

教習所に通いはじめて早2ヶ月、育児と仕事の合間をぬっての受講なので、かなりのゆっくりペースだが、ようやく仮免検定まで来た。実は、教習を受けるたびに実感していることがある。車の運転には「周囲にたえず気を配り、状況を把握して、自分がどう動くべきかをすぐに判断する力」や、「つねに相手の身になって考え、動く力」が必要不可欠である。ということは、人間関係において、もっとも重要な能力(スキル)を養う効果も多いにあるのではないだろうか。

私はこれまで、その能力がかなり欠落していたがゆえに、いわゆるKY(空気読めない人)として、人間関係で損をしてきたと思う。免許取得後の「車を運転する生活」が、物理的な利便性だけにとどまらず、私の人間性を少しでも向上させてくれるものであれば、こんなにうれしいことはない。

 

『保育参加をつうじて』

2010年6月号

『保育参加をつうじて』

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

昨日は夫と二人、保育園の「保育参加」に行った。保護者が都合のよい日を園に申請し、「一日保育士」として、園児と遊んだり、いっしょに給食を食べたりして、園児や保育士との交流を深めるものだ。子ども達はもちろん、私達夫婦も楽しみで、毎年、時期がくるたびに必ず申し込んでいる。

保育参加のときは、①我が子以外の子ども達と積極的に関わる(遊ぶ)、②ときどき、離れた位置から集団における娘の様子をそっと観察する、をモットーにしている。夫はさっそく年長の男の子達と、園庭で「こおりおに」で盛りあがっている。小・中・高と野球三昧だった夫は、娘達のおままごとの相手はつとまらないが、運動系の遊びはOKなのだ。

私は普段のバタバタした送り迎えの際には、なかなかふれあう機会のない園児達をかわるがわるだっこしては、名前や年齢を聞いたりして、おしゃべりしながら、そのぬくもりを味わうのが好きだ。同じ組の園児でも重たさに差はあるけれど、どの子もみんな、あったかい。また、離れた位置から娘をそっと見つめていると、娘が家で話す保育園でのさまざまな出来事が、子どもならではの自分本位な視点によるものでもあることを実感する。

娘は、「保育園でパズル(ブロック)をしてたら、○○ちゃんが邪魔した」といった趣旨のことをよく口にする。けれど、実際にはお友達は特に邪魔をしているわけではなく、いっしょにやりたいのである。けれど、娘は「ひとりで作品を完成させたい」願望がやたらと強い子なので、「ひとりでやりたいのっ!」と怒り、結局、けんかになってしまうという、親からすると、「あなたが悪いんでしょ…」とため息をつきたくなるような状況も多々あるようだ。

また、しょっちゅう、「○○ちゃんとけんかした」と娘が口にするお友達と、けっこう楽しそうに遊んでいるときもあり、安心する。○○ちゃんをだっこしたら、私の首に両手をまわして、いろいろおしゃべりしてくれた。子どもって、やっぱりいいなと思った。

 

『八日目の蝉』

2010年5月号

『八日目の蝉』

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

先週、NHKの連ドラ「八日目の蝉」(全6回)が最終回を迎えた。これほど私の胸の奥深くをついてくる連ドラは、この十年なかった。

あらすじはいたってシンプルである。不倫相手の説得により不本意に中絶させられ、それが原因で子どもが産めなくなった女性、希和子が、不倫相手とその妻の子ども(生後6カ月の赤ちゃん)を、突発的に自宅から連れ去る。すぐに指名手配されるが、その後、逮捕されるまでの約5年間、希和子は子どもを抱えて逃げ続けながら、母としての人生を全力で生きるという話だ。謎かけやミステリーが全くないのに、これほど惹きつけられるのは、ドラマ全体の質の高さゆえだろう。

希和子は『誘拐犯』である。だが、人生のすべてをひきかえにして、偽りの親子の時間を少しでも長引かせるために、子どもを抱きかかえて必死で逃げ続ける希和子の姿はどこまでも哀れで切なく、視聴者は希和子に味方せざるを得ない。その幸福が長くは続かないことを知っているからこそ、希和子は娘とのひとときを、その1分1秒を噛みしめて生きる。その母娘の切なく、やさしい情景に何度も涙しながら、どうして私は、こんなふうに子どもとの日常をいとおしむことなく、イライラしてばかりいるのだろうと、自分へのやるせなさで胸が痛くなった。

「子どもと1秒でも長くいっしょにいたい」どころか、「1時間でいいから、ひとりになりたい」願望を、私は慢性的に抱いている。全然言うことを聞かないとき、ご飯を食べないとき、兄弟げんかをいつまでも続けているとき、まとわりついて家事や仕事の邪魔をしつづけるとき、とにかくうるさいとき、鬼のような形相で子ども達を叱りつけ、怒鳴ってしまう。そして、そんな自分に、そんな毎日にうんざりして、「子どもがいなければ、どれほど楽だろう」と思ってしまう。このドラマは、育児に疲れている多くの母親に、「ママ」「お母さん」と、全身で求めてくる存在がいる幸せ、抱き上げて、そのずっしりとした重みとぬくもりをいくらでも味わえる幸福を再認識させたと思う。逃げる必要もなく、全国の小児科を無料で受診でき、子どもとの未来を夢みる幸福も。毎週、見終わった夜は布団のなかで、眠る子ども達の小さな手を握って、少し泣いた。「ごめんね、ママ、いつも怒ってばかりで。本当は、すごく幸せなのにね」。

 

『パパとママの成長』

『パパとママの成長』

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

夫はすこぶる穏やかな人柄なので、これまで、怒鳴りあうような深刻な夫婦げんかは一度もしたことがない。でも、1分以内で終わるプチ口論はちょくちょくやっている。たいてい、私が頼んでおいたことを、夫がやってくれていなかったときに。

たとえば、「7時までには帰るから、子ども達お風呂にいれておいてね」と仕事部屋で絵を描く夫に言い、「はいよ~」という返事をしっかり聞いて出かける。

夜、帰宅すると、子ども達は未入浴で遊んでいる。当然私は、「なんでお風呂入ってないの」と怒る。すると夫は「入れようと思ったら、下の子が寝ちゃってた」とか、「アヒルが見つからなかった」とかなんとか下手な言い訳をする。本当は仕事を中断するのが嫌だっただけなのだ。「できないこと、簡単に引き受けないでよ」「だって、俺が『やだ~』って言ったら怒るでしょ」と、まぁ、こんな感じである。

先日も、早朝、仕事に出かける前に、頂きものの和菓子を同じマンションに住むおばあさんに、子ども達の帽子を編んでくれたお礼に届けておいてと頼んでおいたのに、帰宅したら、届けているどころか、包装が開いているではないかっ!「なにこれ」と、ひきつった顔で聞きながら、内心、夫の口から出るであろう言い訳を考えていた。きっと、「テーブルに出しっぱなしでいくから、ちょっと目をはなしたすきに、子どもが開けちゃったんだよ」とかなんとか、結局、私のせいにするんだろう。

「ごめん。子ども達が帰ってくる前に持っていけばよかったんだけど、気づいたら、もう開けててさ。明日、俺、ほかのもの買ってくるから」。

夫の口から出た言葉は、意外にも、謝罪であり、反省だった。少し拍子抜けした後で、夫も少しは成長しているんだなと思った。ならば、私も少しは成長しなければならない。「和菓子にしてね」とだけいって、それ以上、怒るのはやめにした。子育て家庭において、日々、成長していくのは子ども達だけじゃない。パパとママも、もう身長は伸びないけど、中身は成長を続けるのである。