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子育てエッセイ

『母という絶対的存在』

2009年1月号

『母という絶対的存在』

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

二児の母になって、早二ヶ月が過ぎた。おとといから田舎の母が来てくれているのだが、専業主婦歴45年の母は、家事も育児も徹底していて、いつもなにかしらやっている。今も、少しは休めばいいのに赤ちゃんの肌着を縫っている。そんな母を見つめながら、私は母のような母親になれるだろうかと思う。

ふりかえれば、子どもの頃から、私は母を「一個人」としてとらえたことがなかった。母に子ども時代があったことさえ信じ難く、生まれたときから、姉と兄と私の「母」として存在しているような気さえする。いつもエプロンをした母が、スーツを着て会社で働く姿なんて想像もつかないし、もちろん、母に「女性」を感じたことなんて一度もない。

私が知る母は、浅田○子というひとりの人間の一部であるという当然といえば当然の事実に気づいたのは、大人になってからだ。それほど、母を「絶対的な存在」として感じて生きてこられたのは、母が常に私の前で「母の顔」を保ちつづけていてくれたからだと今になってわかる。そして、それがかなり大変なことも。

今の小・中学生には母親を客観視している子が少なくない。現代の子どもが昔より早熟だからだろうか。それとも、「一個人」として、または「女」としての自分自身を子どもに隠さない母親が増えたからだろうか。母子家庭の小学生が「ママの新しいカレシがさ~」とすまして言ったり、共働き家庭の中学生が「お母さんは家事はしないけど、そのぶん稼いでるから、まぁ、いいんじゃん」などと答えるのを聴くたびに、母子の関係もずいぶん変わったなと思う。ある意味、友達のような対等な関係になっているのだろうか。

私自身、二児の母になった今も、「一個人」としての自分を大切にしたい気持ちは確かにある。でも、子ども達の前では、できるかぎり「母の顔」を最優先して、子ども達にとって絶対的な、どっしりと安定した存在でありたい。老いた母の背を見つめながら、そう感じている。

 

『第二子出産をへて』

2008年12月号

『第二子出産をへて』

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

予定日の11月3日を過ぎても産まれる気配がなく、結局、10日の朝、陣痛促進剤(点滴)を打つことになった。

朝、夫ともうすぐ3歳の娘と手をつないで病院に向かう道中、「3人家族も、これが最後か。今日の夕方頃には、私と夫は2児の親に、そして娘はお姉ちゃんになるんだ」と思うと、胸にくるものがある。

午前10時から点滴がはじまったが、なかなか陣痛が来ない。夕方になって、ようやく微弱陣痛がはじまったが、6時を過ぎた頃には、まだ子宮口もほとんど開いてないので、ひとまず点滴は中止して、明朝、再スタート、ということになった。

「じきに陣痛も治まる」とのことだったが、午後9時頃から陣痛の間隔が短くなり、徐々に痛みも強くなってきた。12時頃には全身汗だくになるほどで、助産師を呼んで「吐きそう」と告げたら、内診の結果、子宮口がだいぶ開いてきたので、点滴を再開して、急遽、産むことになる。明日の朝までこの陣痛に耐える自信はなかったので、ほっとした。

「二人目は楽」とあちこちから聞いていたが、赤ちゃんがお腹のなかで育ちすぎたのか、いきんだら体が縦に真っ二つに裂けそうで、なかなかいきめない。全然、助産師の指示通りにできず、赤ちゃんが出口でつかえていたときは、あまりの激痛に叫びまくってしまった。立ち会った夫は「あんなの男は絶対無理(涙)。女はスゴイ…」と思ったそうだ。

そして午前1時半、3730gの、これまたビッグサイズのおでぶちゃんな女児を無事、出産した。産まれた瞬間、赤ちゃんの元気な泣き声と、助産師の「まぁまぁ、大きな赤ちゃん」と笑う声が聞こえた。イタかったはずである。産まれたての赤ちゃんを胸に抱かせてもらったときは、二度めとは言え、やはり泣いてしまった。やっと逢えた…。

これからの二人の娘の育児と家事と仕事の両立は、想像以上に大変だろう。でも、しばらくの間は、この年にして2児の母になれた幸福と、娘に兄弟を授けてあげられた喜びにひたっていたい。

 

『訴訟風土の危険』

2008年11月号

『訴訟風土の危険』

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

予定日まで、あと数日となった。自宅の電話の横には、主人が不在中、産気づいたさいに呼ぶタクシー会社数件の電話番号をメモした紙が貼ってある。先日、夫がそのいくつかに、営業時間と我が家の位置をどう言えば簡潔に伝わるかの確認の電話をしたのだが、困ったことがおきた。第一候補だった地元の大手タクシー会社が、「産気づいている妊婦さんは、付き添いの大人が同乗してくれないと困る」というのである。後部座席にひとりでいる妊婦が叫んだり、うめいたりしている状況では運転に集中できないし、万が一、事故を起こしたら大変だから、というのが理由らしい。主人が「自宅から病院までは、車で15分以内の距離なんですが…」とねばったがダメだった。

思うに、日本社会全体が、これだけリスクを極力回避するようになった背景には、米国をはじめとする欧米社会の「訴訟風土」が日本でも確実に浸透してきたからではないだろうか。被害者側が泣き寝入りしなければならない社会はよくない。だが、なにか起きたときに、お互いが相手の非を責めあうばかりでは、人は保身に走らざるを得なくなる。その結果、多少のリスクを背負っても、人として正しいと思うことをする勇気が希薄になる。現在の深刻な産科医・小児科医不足も、激務な上に訴えられやすいという実情があると思う。

先月、脳内出血を起こした妊婦が、8つの救急病院から受け入れを拒否され、結局、帝王切開で出産後、死亡するというなんとも痛ましい事件があった。昨日、御主人の記者会見をテレビで見たが、「誰も責めるつもりはない。妻の死をきっかけに問題が少しでも改善すれば、将来、母親が命とひきかえになしとげたことを、子どもに語ってあげられる」という言葉に、その無念さも伝わって、涙がこぼれた。たがいの非を責めあう訴訟風土ではなく、こういった切実な訴えと未来をみすえた思想こそが世の中を良くしていくんじゃないだろうか。

 

『世話好きなおばちゃん』

2008年10月号

『世話好きなおばちゃん』

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

あと3週間で予定日となった。先週の検診で、経産婦は陣痛・破水から出産までの時間が短いので、産気づいたら、即、病院に来るようにと言われた。夫が不在で、私ともうすぐ3歳の娘だけの場合、娘も病院に連れてきていいものか伺ったら、「見ているスタッフがいないので、それは困る」とのことである。産科は特に人手不足なので当然だが…。

夫の両親は車で約30分の距離に住んでいるが、運悪く渋滞すると1時間近くかかる。それを待っての出発だと、病院に到着するまでに産まれてしまう危険もあるとのことで、急遽、約1時間、娘を預かってくれる先を確保せねばならなくなった。事前に預かる日時がわかっていれば、シッターをはじめ、いくらでも対策はあるが、陣痛・破水という、いつ来るかわからないものが来たら、すぐ…という条件で預かってくれる先を見つけるのはけっこう難しい。まず、近所でないと無理である。

夫と相談した結果、マンションのお隣と、そこが当日、不在だったさいの次の預け先として、下の階の2件にお願いしてみることにした。半年前、引っ越してきた時に挨拶には行っているけれども、日頃は階段等ですれちがったら挨拶を交わす程度のおつきあいで、世間話さえかわしたことがない。頼みにいくときは、かなりの勇気がいった。

けれど、お隣の奥さんも階下の奥さんも笑顔で快諾してくれ、拍子抜けするほどだった。2件とも子育てが終わった年代で、むしろ「喜んで」という感じだ。「たとえ承諾してくれても、内心では迷惑では」と、数日間、頼むのを躊躇していた自分達がおかしかった。

「地域の交流が希薄な現代の子育ては孤独」と言われて久しいが、実際は、おせっかいと思われたくないので自分から進んで世話は焼かないが、内心では近所の子育て中のママから頼られるとけっこう嬉しい「世話好きなおばちゃん」は、まだまだ少なからずいるのかもしれない。二人目を出産する直前のこの時期に、そう感じられることがうれしい。

 

『娘家族との同居時代』

2008年9月号

『娘家族との同居時代』

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

先日、学生時代からの友人に第二子が生まれ、赤ちゃんフェチの私は、いそいそと遊びにいった。友人は第1子が産まれたときに、実家を2世帯住宅に建て替えて御両親と暮らしている。実の両親との2世帯は快適なようで、煮詰まることもなく育児を楽しんでいるようだ。御両親も、それまでの夫婦ふたりだけの生活から、実の娘と、かわいい孫娘達との暮らしになり、幸福そうである。

この友人に限らず、私の周囲には、実の親と同居(2世帯を含む)、もしくはスープの冷めない距離に住んでいるママ友が非常に多い。田舎の親が自分達のそばに引っ越してきたというケースもあるほどだ。いっぽうで、夫の両親のそばに住むママは少数で、日本文化の変遷を感じずにはいられない。かつては息子が親のそばに住むのが一般的だったが、今は娘のほうがそばにいる可能性が高いのだ。しかも、結婚した娘をなんとかしてそばに置いておきたい親の気持ちもやたらと強く、そのためにはお金も惜しまない。

「そのほうが嫁姑問題もなく、娘の夫は仕事で家にいる時間が少ないから気を使うこともあまりないので、万時うまくいく」という意見に押されて、娘家族との同居は、今後、益々普及していくだろう。たしかにそうだなぁと思いつつ、私は一抹の懸念も感じている。

昨年、離婚した友人は、元夫とぎくしゃくしはじめた頃、「俺がいなくても、君はたいして困らないよな」と言われたという。「家もあるし、階下には経済力もあり、子育てにも協力してくれる親がいるから仕事も両立してるし、俺がいなくても困らないだろう」と。話を聞きながら、一家の大黒柱どころか、家庭における自分の存在意義を感じることができなかった、その元御主人の孤独がわかる気もした。結婚した娘と親とがいつまでもべったりでは、娘夫婦の絆は深まらない。その危険性を娘の親は常に心にとめておく必要があると思う。

 

『米国の中高生事情』

2008年8月号

『米国の中高生事情』

市橋理恵子(ファミリー・サポートスタッフ)

 

夏休みに2週間の休暇をとり、家族で4年3か月ぶりに米国カリフォルニアに帰った。夫の海外赴任に伴い6年6か月間住んだ第二の故郷である。赴任時に2歳と4歳だったわが子たちは今13歳と15歳、かつての友達たちもまたティーンエージャーになっており、お互いに懐かしいやら、照れ臭いやらの再会を果たした。

親同士も思い出話をしながら、「あなたがいなくなってから、ずっと学校の送り迎えのカープール相手を見つけるのに苦労してね…今年も休み明けのめどがまだ立っていないの」とこぼされた。この友人は学校の先生をしていて、朝の出勤が早かったのでいつもその娘二人が我が家で少し時間をつぶしてから、一緒に学校に車で送っていっていたのである。その代りお迎えはその友人が行ってくれることになっていたが、急な用事で間に合わない時には電話がかかってくるのでいつもお迎えの時間には私も待機していたものだ。

車社会のアメリカでは、中高生になっても免許を持っている大人に送り迎えをしてもらわないと学校にすら行けないということに改めてびっくりした。デートをするにもどちらかの親が車で迎えに行ってデートの場所まで連れて行き、約束の時間にはまた迎えに行くから、「いつ、誰と、どこで」なんて内緒にできるはずもない。安心と言えば安心だが、親は走り回ってばかりでたまらないだろう。

「そんなことをして安全なのか?お金まで持たせて大丈夫なのか?」とかえって私が保護義務を怠っているとでも言わんばかりの反応だった。思えば帰任時には小学3年と6年だった子どもたちが学校まで歩いて通学するのが心配で、私も離れて後をついて行ったことを思い出す。あれから我が子らは無意識に周りの車や人の動きを察知しながら安全に通行することを覚え、小銭で切符を買って電車に乗ることも覚えた。携帯電話に潜む危険や、変質者がいる可能性などについても知らせてきたので、部活動などで予定が変更になれば自主的に家に連絡を入れるようになった。電車の運休や天候の急変など不測の事態への対応も経験し、判断力も鍛えられてきた。

日本とアメリカでは社会の状況が異なるので、どちらが良いとか悪いとかいう問題ではないが、安全で便利な交通機関が整っていて、その中で少しずつ社会人としての自律心と対応力を養っていける日本の環境は守っていかなくてはと感じた。また、見えにくくなる子どもたちの行動と心に細心の注意を配ることの大切さも。

一方のアメリカでこれから2,3年の間に、娘の友達たちが車の免許を持ち、親の家を巣立って行くその過程はどのようなものになるのか?その頃にまた会いに行きたいものだ。

 

『八月が来るたびに』

2008年8月号

『八月が来るたびに』

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

毎年、8月が来るたびに、テレビで原爆の式典を見ながら思いだすことがある。もう、20年以上も昔のことだ。当時、私は南米に住み、アメリカンスクールに通う高校生だった。その学校には、世界各国の米国と友好関係にある国の生徒が在籍していたが、教師のほとんどは米国から派遣されてきた20~30代の若い白人教師だった。

この学校で、17歳の私は米国人教師によるアメリカ至上主義の偏った教育に驚くことになる。世界史の授業で、母国が史上初の原爆投下「成功」国であることを、教師が多少誇らしげに語ったときは、心底驚いた。そのうえ、原爆投下によって日本は誤った戦争に終止符を打つことができ、米国との安全保障条約による平和のもと、戦争を放棄して経済発展に集中できたから、これほどの経済大国に成長できたといった趣旨を淡々と語った。私は聞きながら、悔しさや怒りよりも、恐怖を感じたのを覚えている。原爆投下を肯定する教育が、次ぎの世代に向けてこうして受け継がれているという事実が、ただただ恐ろしかった。

あの頃、私の英語力は低く、流暢かつ完璧な英語で、理知的にあの教師に異議を唱える自信も勇気もなく、ただうつむいていただけだった。今、思えば、抗議の意志を示すためだけでも、教室から出ていくくらいの行動はとるべきだったのかもしれない。けれど、その後、やんわりと転校を促されるのが怖かった。「目ざわりな存在は排除したい」という米国政府の思想は、世界各国のアメリカンスクールにおいても健在なのだ。

偏った教育の恐ろしさを実感したこの出来事は、その後、私が教育関係のライターになったきっかけのひとつになっている。「いい教育」についての意見は多々あるが、私が思う「いい教育」はバランスのとれた教師による、つねに生徒に考えさせる余地を与える教育である。そういう教育を、すべての子供が受けられれば、世界は確実に進歩していくと信じている。

 

『悪阻中に得たもの』

2008年7月号

『悪阻中に得たもの』

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

…ようやく悪阻が終わった。まだ、夜になると多少ムカムカするとは言え、ピークの頃に比べたら天国だ。この3ヶ月は実に長く、つらい日々だった。でも、得たものも少なからずあったと思う。

まずなにより、健康のありがたさを改めて実感した。悪阻中は、娘の食事づくりと食べさせる作業は拷問に近く、しかも全然食べてくれないときは、ヒステリックに怒りながら泣いてしまうこともあった。そして、おいしく食べられる喜び。食べる楽しみのない人生というのは、なんとつらいものなのだろう。

そして、車で30分の距離に住む主人の両親に対する感謝の想いも深まった。それまでは、育児やプライバシーに対する感覚の違いなどで戸惑うこともあったが、悪阻中は義母が届けてくれる手作りのお惣菜や果物、そして娘の相手をしてくれることが、心底ありがたかった。和室で横になりながら、隣のリビングで娘のおままごとの相手をする義母の声を聴くたびに、過去に私が義母にとった無愛想とも言える態度が思い出され、なんだか恥ずかしかった。

そして、夫も娘も成長した。以前は締切に追われ、仕事部屋にこもりがちだった夫が、さすがに考えを改め、できる範囲で家事や育児に協力してくれるようになった。前は「パパよりも断然ママ」だった娘も、いつもぐったりしているママよりは遊んでくれるパパのほうがいいようで、この三ヶ月で驚くほどパパっ子なっている。夫も大変だと文句を言いながら、まんざらでもなさそうだ。

 

『お薦めしたい本』

『お薦めしたい本』

中舘慈子

 

「親たちの暴走」日米英のモンスターペアレント多賀幹子著

 

親は教師を否定してはいけない。子どもは先生を信頼しなくなる。

これほど教師にも子どもにも不幸なことはない。子どものいないときに大人同士で先生批判をすることもあるだろうが、間違っても子どもの前では慎もう。むしろ親は先生をほめよう。授業参観から帰宅したら、「いい先生ね」「教え方が上手ね」「ユーモアがある」とよいところを具体的に伝えよう。子どもはきっと喜ぶ。先生をほめられると、まるで自分がほめられたかのように感じるらしい。先生について家庭で問題にするときにはさりげなく敬語を使いたい。子どもに先生を尊重する気持ちがはぐくまれるだろう。

知人の多賀さんからこの本が届きました。上記の部分は第5章

「モンスターペアレント」と呼ばせないためにのほんの一部です。

「教師と保護者の対立でもっとも損害をこうむるのは子どもたち」と、筆者は述べています。小学生の保護者の皆さまや教職についていらっしゃる方に目を通していただきたい本です。

 

『はしか』

2008年7月号

『はしか』

中舘慈子

 

「今何時?」「○時になったら教えてね。塾に行くから。」と尋ねるお子様が多いとシッターさんから聞きました。しかもぎっしり詰まったスケジュールノートや携帯電話を片手に・・・。テレビやゲームの画面はめまぐるしく変わり、大人たちは早口でしゃべり、すべてのものがスピードを増して子どもを急かしているような現代は、大人の時間がそのまま子どもの時間になっているような気がします。

子どものころの記憶ほど心に残っていませんか?それは子どもの時間がゆっくり流れていたからだと思います。思いきり自由に遊んだ時間、自分で工夫して遊んだ時間などがあったからではないでしょうか。

確かに、今の子どもたちは忙しいのかもしれません。シッターがうかがう時間の中で少しの間だけでも、テレビの電源を切って本の読み聞かせをしたり、ごっこ遊びをしたり、手作りのゲームをしたり、子どもたちにゆったりとした子どもの時間を味わっていただきたいと思うのです。