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子育てエッセイ

新しい出逢い、旧友との出逢い

ときめきエッセイ 第116

新しい出逢い、旧友との出逢い

  浅田志津子(教育・福祉関係のルポライタ ー・詩人) 

 

 今年の夏は、数年前から抱えていた課題をようやく実現した。主人のHP「もうひとつの時刻表」と、私のHP「夕陽色の詩集」を大々的にリニューアルしたのだ。といっても、自力でではない。私達の詩画展によく来てくださるWEBデザイナーのK氏による力作である。

旧HPは、約十年前に主人が四苦八苦しながらなんとか開設したもので、うんざりするほどの文字量で、非常にセンスが悪く、仕事先からも不評だったが、HP製作会社に頼むのは経済的にもハードルが高かった。だが、主人の絵の世界を大変好いてくれるK氏からの申し出もあって、友人価格でお願いすることにした。

新HPは、とにかくすっきりしている。「シンプルイズベスト」である。主人のHPには鉄道風景画、約300点が閲覧できるギャラリーがあり、私のHPのトップでは、自作の詩の朗読が2編、聴けるようになっている。リニューアル早々、地方で開催される子育てフォーラムのアトラクションとして、母と子の詩の朗読依頼が入った。ネットの力ってすごいなと改めて思う。とてもうれしい一方で、顔の見えない、見知らぬ方からの仕事依頼に、どこか不安を感じてしまう私は、やはり時代遅れなのだろうか。

今週は、遥か北欧からHP経由で一通のメールが来た。大学卒業以来、会っていない旧友からだった。彼女も詩が好きな女だった。「ポエトリー・リーディング(詩の朗読会)」・「日本」等の検索キーワードでネットサーフィンしていたら、どこかで私の名を見つけ、検索したら新HPがヒットし、約20年ぶりに私の声を聴き、懐かしくなって、勇気を出してメールしたという。とてもうれしかった。

ネットをつうじて、新しい出逢いや仕事がもたらされるのはうれしい。でも、かつて好きな詩について語り合い、心が響きあう会話を交わした旧友と、遥か何万キロの距離と20年の歳月を超えて、再びつながれるのは、じんわりとした温もりもあるぶん、もっとうれしい。

伊豆稲取駅での出逢い

ときめきエッセイ 第115

伊豆稲取駅での出逢い

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)

 

  8月上旬、伊豆に帰省した。今回の帰省で、私は初めて「ネットで知り合った方と直接会う」という体験をした。根っからのアナログ人間でネット自体をあまりやらないので、ネットを介した出会いは恥ずかしながら未経験だった。
    Iさんは、ブログ「伊豆稲取便り」の管理人で、毎日のように伊豆周辺の自然(山)を散策(ハイキング)し、そのさいのエピソードを味のある文章と写真や動画でUPしている。昨年の冬、友人が、伊豆急蓮台寺駅に常設展示されている拙詩「たたんだ千円札」の「書」について、このブログで取り上げていることを教えてくれ、早速訪れた。
    胸にしみいるような感想(評論)が、論理的かつ味わいのある文章によって綴られていた。うれしかった。友人知人ではなく、見知らぬ人が自発的に書いた感想こそ、社交辞令がない分、心にしみるものだ。一言お礼が言いたくてコメントしたら、すぐに御返事をくださり、それ以降、時々、Iさんのブログを訪れては、山の涼しさを味わってきた。

    6月に、伊豆急本社から連絡があった。春頃から検討中だった、拙詩「帰省」の「書」の常設展示場所が、伊豆稲取駅の待合室に決まったという。心底驚いた。Iさんの最寄り駅だからだ。確定後、Iさんに伝えたら、大変喜んでくださった。このあまりの偶然も、何かの縁かもしれないと思い、8月の帰省のさいに家族で伊豆稲取駅に立ち寄るので、そのさいにご挨拶できないか勇気を出して伺ったら、快諾してくださった。
    待ち合わせた日はあいにくの渋滞で、途中で私だけ車を降りて伊豆急に乗り、伊豆稲取駅で降りる。改札を出たところで、Iさんは奥様といっしょに、暑いなか私を待っていてくれた。
    3人で待合室に入り、まず、書を鑑賞する。自作の詩が書家による「書」になって、老若男女、さまざまな人々が利用する「駅」に常設展示されているさまを観るのは、ただただ感無量である。県立稲取高校の制服の女子高生が読んでくれていて、静かにうれしかった。
    Iさんご夫妻は上品で素敵な方々だった。私の両親と同じく、退職後に関東から伊豆に移住してきた方々で、Iさんは読書家で、ひとり旅(登山)が好き、奥様は手芸好きなところも、親に似ている。いろいろと話しながら、現在、入院中の父と、介護する母のことを思った。
    その後、Iさんのはからいで、稲取で唯一の書店、「山田書店」にて、詩画集「線路沿いの詩」を店頭販売してもらえることになった。今、我が家の和室には、Iさんの奥様手製の、折り紙の美しいつるし飾りが優しく揺れている。娘達はその真下で、マイクを手に歌って踊るのが大好きだ。人生初のネットをつうじての出会いは心温まるもので、勇気を出して、会うことを申し出てよかったなと思う。

父とのバトル

ときめきエッセイ 第114

父とのバトル

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)

 

 昨年暮れ、田舎の父の舌癌が判明した。幸い転移はしておらず、今年の2月に舌の一部を切除する手術をして無事に退院した。3月末に家族で帰省したら、父は以前と変わらないほど元気で、心配された「しゃべる事」についても、サ行の発音のみ若干濁るくらいで、特に問題もない。ほっとしたのもつかのま、一週間の帰省の最終日は、いつものごとく父との大口論(バトルともいう)となった。父と私は昔からそりがあわず、年に1~2回しか会わないのに、会えば結局こうなってしまう。

 私の口から出る言葉が、ことごとく父の癇に障るようで、喜ぶ(笑う)と思って口にした事さえも父には不快に感じられ、苦虫を噛み潰したような顔で、「そういうバカみたいな(くだらない)事を言うなよっ」と怒鳴ってくる。私が言いかえすと、「なら、くるな」となる。それでも毎年帰省するのは、年に一度くらいは孫達の顔を見たいだろうという親の気持ちをくんでのことなのだが…。

  手術から約3ヶ月後、再発しているのがわかり、急遽、6月に再手術をした。今度は、舌根だけ残して舌を大幅に切除し、胃の筋肉を切り取って舌の代わりとして移植し、血管をつなぐという、12時間にも及ぶ大手術だった。翌日、母が看護士から聞いた話によると、手術後、麻酔から覚めた父は、麻酔の副作用による混乱のためか、絶対安静にも関わらず、いつのまにかベッドを降りてひとりで院内をしばらくさまよってしまい、ひと騒ぎになったそうだ。その事を母から電話で聞いた時、胸がひりついた。

  あの頑固で偏屈で強がりな父が、いったいどんな思いで、あの広大な癌センターをひとりでさまよっていたのだろう。近くのホテルに泊まっていた母を、必死で探していたのだろうか。

  幸い、術後の経過は順調で、先週、家族で見舞に行った。父はしゃべることも、流動食の嚥下もできた。よかった。今月2日に退院し、家での生活で体力を取り戻したのち、再度入院して再発・転移を防ぐ抗がん剤治療を開始する。

  これから当分は、父がなにを言っても私は以前のように言い返す気にはなれないだろう。親子や兄弟が相手に遠慮せずに思い切りぶつかりあえるのは、おたがいが健康なうちだけだ。父との恒例のバトルは、もう、前のが最後になるのだろうか。そうじゃないほうが、いい。

娘の自転車デビュー

ときめきエッセイ 第113

娘の自転車デビュー

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)

 

先週から、小学2年生の長女が、近くの公園までひとりで自転車に乗って出かけるようになった。もともと自転車を買い与えたのが小学1年の冬と遅めで、いきなり補助輪無しからのスタートだったが、ふた月もする頃には公園内のトラックでは乗れるようになった。

だが、私達が住むさいたま市は、道路がきちんと整備される前に建物が先に建ってしまった歴史もあり、交通事情が極めて悪い。5差路、6差路、車がすれちがえない一通でない狭い道路や、歩道の幅が1m以下のバス通りがあちこちにある。年間の交通事故発生件数も全国ワースト5の常連であり、中でも自転車と車の事故が極めて多い。そんな訳で、街中での自転車デビューは「まだ危ない…」と先延ばしにしてきた。

でも、先月から近所へ買い物にいくさいに、長女は自転車で、私は歩きで出かけるようになり、少しずつ街中で乗る練習を重ねていった。まだ、狭い歩道で歩行者とすれちがえず、そのたびに止まってはいるが、なんとか近所の公園まではひとりで乗って行けるようになった。学校から帰宅しておやつを食べ終わると、手さげに遊び道具をいれ、自転車の鍵を手に友達の待つ公園に出かけていく。

 昨日、マンションの5階のベランダから、駐輪場での長女の様子をそっと見学した。手さげを前かごにいれて自転車の鍵をガチャンと外し、よいしょと重そうに引っ張り出す。慎重にサドルにまたがると、両足をしっかり地面につけてから、ゆっくりとこぎ始めた。駐輪場を出てマンション前の坂をくだり、角の交差点を曲がり、見えなくなった。ベランダで見守る私には気づかず、ふり返ることもなく。

 今はまだ近くの公園だけど、そう遠くないいつか、ひとりでずっと遠くへ出かけていくだろう。自転車では行けない遥か遠くへも、電車や車、飛行機で、私を置いて出かけていく。ついこの前まで、「ママといっしょじゃなきゃ、やだっ」が、口癖だったのに。

ペンダントを探した日

ときめきエッセイ 第112

ペンダントを探した日

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)

先月末の連休、家族で筑波山に登った。その日の夜は筑波に泊まり、翌日の午後は、霞ヶ浦総合公園に行った。湖に面して風車や水車、蓮の植物園などがある広大な公園だ。ローラーすべり台や、ロケットの形をした巨大遊具もあり、ハイテンションな子ども達と遊びながら、ふと首に手をやってはっとした。ペンダントの革ひもの中心にぶらさがっているはずの、長方形の貝殻細工がない。

夫は時々、地方の鉄道写真を撮りに数日間のひとり旅に出る。たまに、土産物屋で売っているペンダントやブローチを私に買ってきてくれることもある。失くしたペンダントは、4年前、夫が島根の一畑電鉄を旅したさいに、灯台のある日御碕(ひのみさき)の売店で買ってきてくれたものだ。貝殻を素材にした可憐な花模様が美しく、お気に入りだった。

どこで落としてしまったのだろう。デジカメの画像を確認したら、子ども達とローラーすべり台をすべる私の胸元に、その貝殻細工が光っていた。よかった、この場所で落としたのなら、きっと見つかる。落としてから、まだそんなに時間もたってないはずだ。

夫と二人で、最後のほうは子ども達もいっしょになって探した。でも、見つからないまま日が暮れて、もう帰ろうと夫が言った。

「貝殻がキラキラ虹色に光ってきれいだからさ、きっと地元の女の子が拾ったんだよ。その子の宝物になってるだろうから、それでいいよ」。

そう言って笑う夫の背景に広がる夕焼けが、あんまりきれいで、なんだか少し泣きそうになった。この遠い街の湖畔の公園で、夫と子ども達と、日暮れまで貝殻のペンダントを探した日の事を、私はずっと忘れないだろうと思った。たぶん、夫はあっさり忘れるだろうけど。

いつか子ども達も巣立って、おばあちゃんになって、懐かしさと切なさを胸に、遠い日のこのささやかなエピソードを思い出したときに、同じくおじいちゃんになった夫が、そばにいてくれたらいい。「そんなこと、あったっけ」と首をかしげる夫に、「もう、なんでもすぐに忘れちゃうんだから…」と、たあいもないやりとりができたらいい。

話さなくても...

ときめきエッセイ 第111回 

話さなくても… 

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)

 

4月、長女は小学校2年生になった。家では毎日、妹とけんかしている娘だが、家の外では気が弱く内弁慶だ。自分から積極的に人に話しかける社交性はなく、お店の人に笑顔で挨拶されても、固まった表情で、蚊のなくような声でしか返事ができない。活発で強い性格の子にはふりまわされがちで、意地悪されても言い返せない。

運動神経は極めて鈍く、水泳やマラソン大会は限りなくビリだが、その事を悔しく思う負けん気もない。そういう子だから、はたして学校生活を楽しく過ごせるのか親として不安もあったが、幸い、昨年は担任の先生の配慮もあり、同級生にも通学班のお姉ちゃん達にも恵まれて、楽しく学校に通ってくれた。

2年生のクラス替えで、家が近い「なっちゃん」と同じクラスになった。なっちゃんは、おとなしいけど芯が強く、真面目で、「自分」をしっかり持っている子だ。二人は気が合うようで、最近は帰宅しておやつを食べ終わると、毎日のように近くの公園で二人で遊んでいる。「そんなにいつもいっしょで、話すことあるの?」と笑って聞いたら、娘がぽつりと言った。「…話さなくても楽しいよ」。その言葉に、一瞬、紅茶をいれる私の手が止まった。

遠い日の、海のある街に住んでいた頃の幼い私にも、そういう時代があった気がする。海岸沿いの石段に並んで座ってリリアンを編んだり、美しい貝殻を集めて、一日中遊んだ友がいた。あの頃の友と私には、話すことなんてなくてよかった。沈黙が、気づまりではなかった。

けれど、成長するにつれて、友人関係(人づきあい)には「会話」が最重要になっていった。話さないまま、長時間いっしょに過ごせる友人なんて、今の私にはひとりもいない。沈黙を埋めるために、いつもなにかしら話題を探してしまう。あたりさわりのない、表面的な話題を。

先ほど、公園の横を通ったら、夕暮れのベンチにならんで腰かけて、持参しあったおやつをわけっこして静かに食べている二人の姿が見えた。声はかけずに、しばらくその小さな背中を見つめていた。二人とも成長するにつれて、友人関係に会話が不可欠になっていくだろう。ならば、せめて今のうちだけでも、話さなくても楽しい、そんな優しい時間を大切にしてほしい。

 

「父性」 ‐北海道の暴風雪‐

ときめきエッセイ 第110回

「父性」
‐北海道の暴風雪‐

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)

 

今月はじめ、北海道を襲った暴風雪は9人もの犠牲者を出した。中でも、9歳の娘を屋外で10時間以上抱き続けて凍死した53歳の漁師の父親と、父の腕の中で奇跡的に助かった娘のニュースには、国中が泣いた。

この父親は2年前に妻を亡くし、それからはひとり娘の成長をいきがいにしていたという。ひなまつりのケーキを予約していたのに、受け取れないまま逝ってしまった。

この事件を聞いた瞬間、私は思い切り平手を打たれ、自身の誤りを正されたような気がした。これまでずっと、「父性は母性にはかなわない」と思いこみ、母性のほうが、より根源的なものだと思っていたから。

もう十年以上前、阪神淡路大震災で、奇跡的に助かったのにも関わらず、すぐそばで親を亡くした哀しみから立ち直れないでいる子ども達に向けて、「鼓動」という詩を書いた。詩の中で、子どもの上に覆いかぶさる存在は、私には当然、「母」しかありえなかった。

しかも、周囲には母子家庭が多い。離婚原因の大半が、夫の女性問題や家庭放棄、経済的無責任などである。現代は父親になっても、親としての最低限の責任さえ背負えない男が少なくないのだ。母親と祖父母によって育てられる子どもが増え続ける中、この国における「父性」というものが滅びつつあるような不安を、日々感じている。そんな中でこのニュースを聞き、平手を打たれたような気がした。

 

夏音ちゃん。あなたのお父さんは「父性」について、心臓が痛くなるほどの強さで、私達に教えてくれました。夏音ちゃんは、父親に限りなく愛された幸せな子です。そしてお父さんも不幸じゃない。あなたを守りきることができたから。

もうお父さんは、天国でお母さんに会えて、空から二人で夏音ちゃんのことをいつも見ています。二人を安心させて喜ばせるために、日本中が夏音ちゃんの幸せを願い、応援しています。私も、これからあなたに手紙を書いて、本といっしょに送ります。

夏音ちゃんが将来、お父さんのような強くて優しい男と出逢えますように。そしていつか「お母さん」になったら、お父さんがあなたを守りきれて、どんなにうれしかったか、天国のお母さんがどんなに喜んだか、その事を噛みしめる日が、必ずくるからね。

 

「会う」って、いい

ときめきエッセイ第109回

「会う」って、いい

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)

 

母親になって以降、日々の忙しさを理由に、学生・独身時代の友人ともずいぶん疎遠になってしまっている。でも、実際は忙しさだけが理由ではない。かつては同じ世界で生きていた友も、今は異なる世界・人間関係の中で生きているわけで、現在の日常における接点がなにもない相手と過ごす時間に、多少のぎこちなさや一抹の淋しさを感じてしまうせいもあると思う。

「子連れで遊びにきてよ」と言われていて、せっかく近くまで行く機会があっても、相手も働くママだと「休日こそ、たまった雑務をしたいだろうし…」と、結局、会うのを躊躇してしまう。かくして、もう何年も会ってない、年賀状のやりとりのみの友人が増えていく…。

先月、学生時代の友人から、3月に地方へ転勤するというメールをもらった。たがいに日程調整しあい、子ども達を親に預けて渋谷で落ち合い、約3時間、一分一秒を惜しむように、あらゆることを語り合った。話しながら、彼女にまつわるさまざまな出来事を思いだしていた。

学生時代、私のアパートに彼女が数日間泊まり、テレビのドラマを見ながら恋愛談議をし、布団に入ってからは社会問題、将来、子どもにつけたい名前の候補など、あらゆるテーマについて語りあった。

独立当初、レギュラーのシッター先で、テレビでニュースを読む彼女をときどき見た。私が「友達だよ。今度、いっしょにコンサート行くよ」と告げたら、子ども達が大層驚いて私も鼻高々だったが、その直後、上の子に真顔で「友達なのに、なんでこの人はテレビでニュース読んでて、しづさんはうちのお風呂洗ってんの?」と聞かれた時はツラかった…。

(注釈:原則、お風呂洗いはシッターの仕事ではない。子ども達を入浴させるにあたって、洗わねばならない状況だったのである)

私の結婚式では、彼女が着物姿で「友人代表」のいいスピーチをしてくれた。ビデオ係を引き受けてくれた男性編集者が、後日、上映会を開催したら、新婦の私より彼女を撮っていた(笑)。

あれこれ思いだしていたら、目の前で笑いながら話す友に、いとおしさがこみあげてきた。40を過ぎて、そんな感情を抱ける友がいることが、少しうれしかった。「会う」って、やっぱりいい。

 

ささやかな野望

ときめきエッセイ 第108回 

ささやかな野望

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)

 

年が明け、新しい一年が始まった。昨年の今は、まだ、姉がいなくなってしまったことへの実感が持てず、ただただ、ぼんやりと過ごしていたことを思いだす。テレビで姉の好きそうな番組をやっていると、姉に電話で教えてあげようとして、そのたびに「あぁ、そうか。もう、いないんだった」と思い出し、しばらくの間、電池が切れた人形のようにその場に立っていた。 

あの頃、しょっちゅうぼんやりしていた私に、幼い娘達が、「ママ、どうしたの」と不安げに聞いてきた。その声に我にかえり、「なんでもないよ」と言って、床に膝をついて子どもを胸に抱きしめた。そのぬくもりにすがっていた。抱きしめる存在は、人間を強くする。子どもがいてよかったと、あれほど切実に感じたことはない。

子ども達の存在が、私に最低限の家事と育児をさせ、動かしていた。そうしていく中で時間は流れ、生まれてはじめて対峙する「姉のいない世界」に、私は少しずつ適応していった。もし、子ども達がいなかったら…。そう思うと、怖い。

ふりかえれば10年前、東京の片隅で独りで生きていた頃も、シッター先の子ども達にずいぶん救われていた。独立当初は仕事において嫌な思いをしたり、惨めさを噛みしめることも多々あった。それでも夕暮れのなか、走ってシッター先へと向かい、子ども達と過ごすうちに、沈んでいた気分も晴れていった。甘えてじゃれついてくる子ども達を、抱きしめてムギュムギュしていると、自然と優しい気持ちになれた。 

そういう、あったかくてほっとする種類のスキンシップは、大人同士の人間関係には存在しない。相手が子どもだからこそ生じるものだ。そして、それは確実に人の心を癒し、精神的な安らぎをもたらすと思う。だから、今年もさまざまな場で、シッターという仕事の意義深さを発信していくつもりだ。そしていつか、この国のすべての女性が、数年間、徴兵制度ならぬ「シッター制度」によって、半ば自動的に子どもと関わる社会にしていくのが、私のささやかな野望である。

 

母親の「自分育て」

ときめきエッセイ 第107回 

母親の「自分育て」

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター・詩人)

 

先月、子連れで図書館に行ったさい、講演会のチラシがふと目にとまった。講演者の紹介文に「5児の父親でもある○○大学教授の~」とあり、すぐに「あぁ、H先生だ」と思いだした。約十年前、私が詩を連載していた月刊誌「社会教育」で、H先生はエッセイを連載していた。5人の子どもの父親として奮闘するH先生のエッセイは大変面白く、毎月、読むのが楽しみだった。その講演は託児有りだったので、即予約し、翌月、聴きにいった。行ってよかったと思った。多くの母親の胸にしみる話だったので、ぜひ、ここで紹介したい。

演題は「妻が僕を変えた日」である。H先生は大学在学中に学生結婚し、奥様は通っていた国立大学を中退して母になる。H先生は卒業し、大学に職を得てキャリアを積み重ねていく。その後も、次々と子どもが産まれ、奥様は育児に追われながら「大学は中退してしまったけど、自分も資格をとって、いずれ社会で活躍しよう」と、託児付きのスクールに通ったり、通信講座を始めたりとさまざまな挑戦を試みる。だが、どれも長続きせず、途中で辞めては新目標に挑戦…の繰り返しがつづく。

ある日の朝、「これからは国際化だから、英会話を始める」という奥様に、先生が気軽に揶揄する言葉を口にしてしまう。その途端、奥様は突然ボロボロと泣き出し、先生が何度詫びても、一日中泣き続ける。そのときはじめて、H先生は気づくのである。奥様は子育てがつらいのではなく、「自分育て」ができないことがつらいのだと。それまでの、休日に遊園地やファミレスに連れていって家族サービスすれば、妻も満足すると思いこんでいた自分の浅はかさを深く反省し、その日以降、H先生は変わる。奥様の「自分育て」の応援団長になるのだ。

私もそうだった。二人目が産まれて以降、仕事は激減、自分の時間もなくなり、精神的にひからびていくような感覚があった。新規の仕事先の営業がしたいと思っても、突然、病気になる子ども達を見つめては、「どうせ無理だから…」とあきらめていた。子どもは日々成長し、夫は仕事の範囲を広げていくなか、自分だけ成長を足止めされているような気がしていた。そしてある日、週末の家族お出かけを誘う夫に言った。「それより私は、前に取材した教育者から送られてきた本が読みたい。子ども達連れて、行ってきて」と。

H先生や夫のように、「俺が働いて養って(やって)るんだから、あとは休日に家族サービスすれば十分でしょ」と、漠然と思いこんでいる男は、昔も今も少なくないだろう。だが、母親だって、「一個人」としての自分を抱えている。自分育てをして成長したいと思っている。その想いに夫が真摯に向き合い、できるかぎり子どもにしわ寄せがこないよう協力しあうことで、夫婦の信頼関係は何倍も深まっていくだろう 。