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子育てエッセイ

姉の教え その②

ときめきエッセイ 第97回

姉の教え その②

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

今日は姉の四十九日の法要だった。姉の義兄夫妻が1歳3カ月になる赤ちゃんを連れてきていた。そのかわいらしい仕草を見つめながら、母になることなく逝った姉のことを思った。

姉は法廷通訳の仕事に明け暮れ、結婚も遅かった。子どもを欲しがっていたけれど授からないまま仕事を続け、40歳で病気が発覚した。それからは治療に専念するため、仕事も辞め、子どももあきらめることになった。その時からずっと、思ってきたことがある。

「姉が子どもを産んでいれば…」。

妊婦が受けるさまざまな検査がきっかけで、病気が発見されるケースも多いので、姉の乳がんも早期発見され、完治したかもしれない。たとえ完治はせず、抗がん剤治療を続けることになっても、子どもがいれば、母として、子どものために少しでも長く生きなければという使命感にひっぱられ、もっと長生きできたかもしれない。

働く女性のほとんどは、いずれは母になるつもりでいる。だが、出産のために生じる仕事のブランクや、その後の育児の大変さを考えると躊躇して、つい先延ばしにしたくなる。でも、本当に欲しいのなら、いつまでも先延ばしにしないほうがいい。「さぁ、産もう」と思っても、すぐに授かるとは限らないし、女性の40歳前後は、さまざまな病気が寄ってくる時期だ。病気になったら、不妊治療よりも病気の治療を優先することになる。

昨年の春、子連れで伊豆の実家に帰省中、ちょうど姉も来ることになり、久しぶりに姉妹で実家で過ごした。夕方、犬の散歩に行こうと思い、2階の娘を呼びにいったら、窓際の椅子に座った姉が、眠る2歳の次女をだっこして、静かに揺れていた。娘の頭に頬をあてて、揺れながら目を閉じていた。窓からさしこむ西日がスポットライトのように姉を照らし、なんだか聖母マリア像みたいだった。

階段をのぼる途中でその光景が目にはいり、一瞬、見とれた後で、私はそっと階段を降りて、ひとりで犬の散歩に行った。母になれず、病気を抱えて生きる姉に、せめて、あのぬくもりを、あのやわらかさを、静かに心ゆくまで、味わわせてあげたかった。

 

姉の教え

ときめきエッセイ 第96回 

姉の教え

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

年が明けた。昨年は、全体的にも個人的にも、つらい年だった。年明け早々、哀しい話になってしまうが、年末に、乳がんによる呼吸不全で、11月半ばから入院していた姉の容体が急変し、永眠した。まだ、45歳だった。46歳の誕生日まで、あとたったの7日だった。

30日の通夜、大晦日の告別式を終えて、今は、ただただ、ぼんやりしている。東大病院の12階の病室で姉の付き添いをしながら、二人で過ごした時間を思いだしている。姉の笑顔、姉との会話、酸素マスクをして眠る姉の横顔、病室の大きな窓から眺めた上野公園、旧岩崎邸庭園の銀杏。付き添いを終えて上野駅と歩く夜、不忍池のほとりでふりかえり、いつも見上げた姉の病室の丸い窓。今月の付き添いの予定がすっぽりとなくなり、ただただ、ぼんやりしている。

姉の乳がんが判明したのは6年前だ。その2年ほど前から、体調がすぐれない状態が続いていたが、結婚して生活が変わったことによる精神的なものだと姉は思いこんでいて、心療内科に通院して薬を処方してもらっていた。その上、スペイン語の法廷通訳の仕事が忙しくて大変だったこともあり、結局、精密検査を受けずに無理して働きつづけるうちに、胸がひきつる感覚に気付いた。ようやく検査を受けたら、乳がんで、既に転移していた。そのことを電話で母から知らされたとき、私はまだ生まれてまもない長女を腕から落としそうになった。

手術はせずに、何度も薬を変えての抗がん剤治療やホルモン治療を続けながら、通院で、なんとかこの6年間がんばってきた。このまま、小康状態を維持しつづけてほしいと誰もが祈ったが、昨年の秋口から息苦しい症状が出始め、入院してひと月半で逝ってしまった。

もっと早く精密検査を受けていたら、早期発見、早期治療で、この先、何十年も生きられたかもしれない。美しく、正確なスペイン語で、もっと多くの人々を救えたかもしれない。そう思うと口惜しくて無念で、鉛を飲んだような気分になる。だからせめて、今、これを読んでくれているあなたに真剣に伝えたい「姉の教え」がある。

①たとえ、どんなに仕事や育児が忙しくても、年に一度は健診を受ける。 

②「最近、体調悪いな」と思ったら、先延ばしにせずに、即、受診する。

③それでも改善しなかったら、別の病気も疑って、他病院でも受診する。

この3つを守れば、あなたの人生は飛躍的に伸びる。各市町村でも、年齢性別ごとにさまざまな健診・検診サービスを、行政が無料、または僅かな自己負担額で提供しているので、問い合わせてほしい。

姉は、この3つを守る大切さを、健康にまさる幸せ、財産は存在しないことを、自身の身を持って、家族や親族はじめ、仕事関係者、友人知人、大勢の人々の胸に深く刻みこんでくれた。姉の教えを自らが守り、ひとりでも多くの人々に伝えていくことが、姉のなによりの望みだろうと自分に言い聞かせて、無念さを紛らわせている。

 

師走が来るたびに

2011年12月号

師走が来るたびに

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

早いもので、今年も残すところ、あと十日ちょっとだ。子どもの頃はあれほど長かった一年という歳月が、今は怖いほど早く過ぎる。学生時代、中学、高校生活の3年間が、あれほど長く感じられたのは、それだけ自分自身のなかに蓄積されていた歳月が少なかったからだ。まだ15年間しか生きていない者には、3年間はこれまでの人生の5分の1に値するから、あんなに長く感じるのだろう。

この季節になると、ポストを開けるたびに届くものがある。喪中を知らせる葉書である。10年前までは、同世代の友人知人から来る喪中葉書は、圧倒的に「祖父母」の永眠によるものだった。だが、5年ほど前から、祖父母ではなく「父母」であるケースも増え、そのたびに驚き、そして沈んでしまう。私は3人兄弟の末っ子なので、同世代の友人の親は、たいてい私の親よりも相当若いからだ。

先日も、友人から御父上の永眠を知らせる葉書が届いた。お悔みの手紙を書きながら、私も、もう親がいなくても、おかしくない年になったのだと思う。高校卒業と同時に親と離れて暮らすようになって、もう20年以上たつ。実家は遠く離れているため、会うのは年に2、3回程度だ。独身時代とは異なり、今は夫と子ども達との、自分の「家族」を持っているぶん、実家から埼玉に戻るさいの淋しさもない。「結婚しても親とべったり」な娘は多いらしいが、私と親はそうではなく、実家に帰省している約1週間中、確実に一回はけんかするので、同居も二世帯住宅も、たがいにノーサンキューである。

けれど、それでも私は、親がこの世からいなくなるのが、いい歳をして怖い。

そのときの空虚感を思うと、はたしてそれに耐えられるのだろうかと不安になる。それなら、もう少し親に対する態度をどうにかすればいいのにと自分でも思うが、なかなかできない。先週も、もう10年ほど前に私が東京で購入して、実家に設置したファックスの使い方を、未だによく理解していない老親に、電話でつい怒鳴ってしまった。

 

政治家と医者

2011年11月号

政治家と医者

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

もう四半世紀前、南米で暮らしていた高校生の頃、家族で朝食を食べていたら、現地の新聞を読んでいた父がため息まじりに言った。「こりゃ、鈴木善幸じゃないか…」見ると、当時の日本の首相、宇野氏の顔写真として、数代前の鈴木氏の顔写真が掲載されていた。その後に開催されたサミットの一面記事では、参加国の首相達が笑いあう写真のなかで日本の竹下首相はなんとも淋しい写り具合で、私は高校生ながら、ひどくくやしかった。海外生活の中で「東洋人」というだけで見下され、嫌な思いをすることも多かった分、せめて母国の首相は世界中から敬意を表される存在であってほしかったのだ。

あれから25年、この国の首相はコロコロ変わり過ぎて、もはや海外どころか国民にさえ敬意を表されない存在になった。福島の避難所を訪れた管元首相が、自分達の前を素通りしたことに憤る避難民夫妻に平身低頭するさまをテレビで見ながら、つくづくそう感じた。私自身、この国の首相という立場に特に威厳を感じない。それより「誰でもいいから形だけでも長くいてよ」と切実に思う。総理や大臣が頻繁に変わるのは、なにより効率が悪いし、国際的に恥ずかしい。

病人は誰しも、いい医者にかかりたい。金、女、酒にだらしがなく、失言が多くても、高額でも、名医を希望する。政治家は、国というさまざまな疾病を抱えた生き物を治す医者と同じで、この国も、切実に名医を求めつづけている。時間をかけて、じっくりと治療に専念してくれる名医を。

たとえ、不正が発覚しても、「この政治家なら、時間をかけてこの病を治せる。

降ろしたら、確実に病状は悪化するから降ろせない」。メディアや世間にそう思わせるほどの政治家は、今、この国に存在するのだろうか。テレビを主とするメディアへの露出に頼らずとも、政治家としての能力で勝負できる、国民が心からの敬意を表する政治家は、はたして存在するのだろうか。

娘のピアノに託す

2011年10月号

娘のピアノに託す

夢浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

先日、田舎から母が上京し、4日間我が家に滞在した。子ども達の保育園の運動会がメインイベントだったが、もうひとつイベントがあった。もうすぐ6歳の長女の電子ピアノの購入である。

今年の5月から、長女はピアノを習い始めた。我が家にある小さいキーボードでの練習にも限界が出てきて、とうとう電子ピアノの購入を決意する。この半年間、さまざまなメーカーの製品を比較検討し、ある程度目星をつけて、先日、母を連れて家族で楽器店に行き、購入した。私はもちろん、母も娘もうれしそうで、いい思い出ができてよかった。

今週の金曜に配送にくるため、現在、置き場所を検討しながら、幸福感にひたっている。ピアノを持つことは、少女の頃からの私の夢だったのだ。私の世代の女性の大半はピアノを習った経験があるが、私にはない。父の仕事で海外転勤を繰り返す環境だったし、当時は、電子ピアノは今ほど普及しておらず、アップライトが主流だったこともある。

今でもピアノを習いたい気持ちはあるが、その余裕はないので、娘のレッスンの付き添いを楽しんでいる。娘が小学生、中学生になっても、できる限り付き添って、先生の説明を聴き、家で練習していたら、ママもある程度は弾けるようになるかもしれない。そんな野望もあって、当初の予定よりも少しランクの高いものを思いきって購入した。

私には、今からひとつの夢がある。約10年前から、音楽家と組んで、自作の詩をギターやピアノの生演奏と共に朗読する「詩の朗読と音楽のコラボレーション」を随時、開催しているのだが、いつか、娘のピアノとコラボしたい。その頃にはもう、今の「ママ、ママ」と甘えてくる娘はどこにもおらず、たがいに距離を置いた関係で、それぞれの生活、人生を生きているかもしれない。それでも、年に一度、私の詩に娘がピアノで寄りそってくれたら、言うことない。

 

(創作童話)おひさまばたけ

2011年10月号

(創作童話)おひさまばたけ

ますだまみ(ファミリー・サポートベビーシッター)

 

きらきら

ぎらぎら

おひさまがまぶしい、なつのあるひのこと。

「ごんた、いくぞ」

「どこにいくの?」

「おひさまばたけだよ」

「えっ、おひさまばたけ?」

「うん、こっちこっち」

「にいちゃん、まってよ-」

だんごむしのごんたは、にいちゃんといっしょに、すから出てくると、草のなかをあるいていきました。

ちょこちょこちょいちょい

ちょこちょこちょいちょい

「にいちゃん、まだつかないの?ずいぶんながいのぼりざかだね」

「ごんた、あともうすこしだ」

ちょこちょこどっこい

ちょこちょこどっこい

「ごんた、ついたよ。ほら、うえをみてごらん。おひさまがいっぱいあるだろう」

「ほんとだ。にいちゃん、こんなにおひさまがいっぱいだから、あついんだね」

ここは、おかのうえのヒマワリばたけ。おおきなヒマワリが、たくさんさいています。

「にいちゃん、せっかくここまできたんだから、おひさまにのぼってみようよ」

「えーっ、あんなにたかいところにのぼるのかい?」

「ぼく、もっとちかくでみてみたい。にいちゃん、のぼろう!」

ごんたとにいちゃんは、いちばんせのたかいヒマワリに、のぼりはじめました。

ちょこちょこぐいぐい

ちょこちょこぐいぐい

「ごんた、がんばれ」

「にいちゃんも、おちるなよ」

ちょこちょこえいえい

ちょこちょこえいえい

「やったー、てっぺんのおひさまにとうちゃく!」

そのとき、つよい風がふいてきました。

ごんたとにいちゃんは、風にあおられて、ひゅーんと、くうちゅうにとばされました。

そして、そのままじめんにおちてしまいました。

ころころくるくるくる

くるくるくるころころころころ

まあるくなった、だんごむしのごんたとにいちゃんは、そのままおかをころがって、おうちまでかえっていったんですって。

 

出典:母の友2011年11月号

 

母子と自転車

2011年9月号

母子と自転車

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

7月半ばに網膜剥離の手術をして以来、まだ車の運転を控えている。夫は外出や地方での個展等で不在が多いため、保育園の送り迎えはほとんど私が自転車で行っている。

前椅子にもうすぐ3歳の次女(15㎏)、後ろ椅子にもうすぐ6歳の次女(22㎏)、計37㎏を乗せて、片道自転車で15分の道のりは相当キツイ…。上り坂は私だけ降りて、ふうふう言いながら押して登る。猛暑もつらいけど、雨に降られると母子そろって悲惨この上ない。

子ども二人を乗せていては傘をさすこともできず、どしゃぶりのなか、ひたすらペダルをこぐ。ただでさえ、惨めで泣けてくる状況なのに、眼に雨水がしみて涙が出る。「もうすぐだからっ。家に着いたら、すぐにお風呂だからっ」と、ずぶ濡れの子ども達に何度も叫びながら、必死でペダルをこぐ。「雨のときはタクシーを使え」と夫は言うが、往復4000円を思うと、なかなか使う気になれない。

先日、自転車をこぎながら、「そろそろ、車の運転できるかなぁ」とつぶやくと、後ろに座る長女がぽつりと言った。「自転車のほうがいいなぁ」。「なんで?」「だって、いろんなものがいっぱい見えるし、近いもん」。

たしかにそうだ。自転車をこいでいると、なにもかもが近い。用水路沿いに咲き乱れる背の高いタチアオイや、水路を泳ぐ鴨たち。初夏の田植えから晩秋の収穫まで、芸術的にその姿や色彩を変えていく田んぼ、畑に並ぶサトイモの葉の傘、民家の庭の木からこぼれるサルスベリ、そして、顔なじみの夕方の散歩中の犬達。

「ママ、見て見てっ、カモちゃん」「あれ、なぁに」「ママ、わんわん」と、いちいちそれらに反応する子ども達に答えながらペダルをこぐ。せがまれて自転車を止め、それらを眺めたり、さわることもある。踏み切り待ちで見た夕焼けがあんまりきれいで、電車が通過した後も、しばらく3人で眺めていたことも。

長女は来年から小学校だ。これからはひとりで自転車に乗って、ママの知らない風景を見つけていくだろう。もう、背中越しに長女とあれこれ話すこともないと思うと、淋しくてしょうがない。

 

放射能被害のなかで

2011年8月号

放射能被害のなかで

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

あの大震災から5ヶ月がたった今もなお、福島第一原発の放射能被害は続いている。子どもを持つ母親達は、「政府の報道はあてにできない」と、自ら購入した計測器で公園などを計測してまわり、それは福島県内に限ったことではない。原発から30キロ以上離れた隣県でも、高い放射線量をマークする「ホットスポット」が各地に出現し、福島とその近県の母親達は、目にはみえない被爆の恐怖に慢性的に疲れている。

私が住むさいたま市から電車で1時間の千葉県柏市には高い地域もあるそうで、柏に住む学友は4月には原発から遠く離れた関西の実家に子ども達を連れて避難していった。もちろん、御主人は仕事があるからひとりとどまっている。パパと離ればなれになっても、幼稚園や小学校が変わっても、被爆の危険や不安のない地域での子育てを選択したのだ。

「自分の意志でとどまる親や大人は、後で被爆による症状が出ても、ある意味、自業自得よ。でもね、決定権を持たない子どもを親の都合で巻き添えにしちゃいけないのよ。子どもに症状が出てから後悔したって遅いんだから」。理系エリートでキャリア志向の彼女が、休職してまで子連れ避難を決めた言葉には説得力があり、いろいろと考え込んでしまった。もし、私が住む地域が高い放射線量をマークした場合、私は主人と離れ仕事も捨て、子ども達を抱えて、遠く離れた場所に生活を移す覚悟と勇気を持てるだろうか。

福島は、主人が鉄道風景画家としての新たな人生のスタートを切った場所である。住いんでいた5年の間に、福島在住の友人知人がたくさんできた。そのほとんどが被爆を恐れながらも、仕事をはじめ、それぞれの事情で福島を離れることができずに住みつづけている。私にできることなどなにもない気がするが、せめて、いちライターとして、福島在住者の健康のための定期的な被爆検査の徹底や、校庭、公園等の洗浄、夏休み中の子ども達のために、安全な屋内遊び場の整備・拡充などを主張しつづけていきたい。

 

イヤダ!ヤメテ!

2011年8月号

イヤダ!ヤメテ!

中舘慈子(株式会社ファミリー・サポート代表取締役)

 

「だいすけがカーサに行きたくないっていうんです。のりちゃんがいじめるからって。こんなことは初めてで心配です。」

だいすけくんのママが心配そうに言いました。

のりちゃんははっきり主張の出来る女の子。いじめをしている様子はまったくありませんが、おっとりしただいすけくんにはかなり苦手なようです。だいすけくんはその場で自分の気持ちを伝えることが出来ずに、家に帰ってからママに切々と訴えたのでしょう。

ごうくんは2歳になったばかり。だいすけくんより1歳小さい男の子ですが、なかなかやんちゃで、時々口より先に手が出ます。

今日はおとなしく立っているだいすけくんをごうくんがひょいと押しました。だいすけくんは、さめざめと泣き出しました。保育者が優しくなだめても泣き続けていて、ほかの活動に入ることも出来ません。

それは、やっと機嫌を直してお茶を飲んだ後の一瞬の出来事でした。保育者が引き離す間もなく今度はかなり強くごうくんがだいすけくんを押したのです。

そのとき、保育者はだいすけくんに穏やかな調子でこう言いました。

「だいすけくん、ごうくんは仲良くしたいんだけど口で言えなくて押しちゃうんだよ。だいすけくん、そういういときは“イヤダ!”“ヤメテ!”と言ってごらん?」

すると、だいすけくんはのどをふりしぼって絶叫しました。

「ギャア~~~~!!」

次にかつて発したことのないほど大きな声で

「イヤダァ~~!!ヤメテェ~~!!」

と、言ったのです。

もちろんごうくんはびっくりしてとびのきました。

だいすけくんも、その後すっきりした顔でゆうゆうとあそび始めました。

だいすけくん、絶叫したときに心の殻がはじけ、外に向かって言葉を発することが出来たのですね。

「人生を拓くことば」を学んだのではないでしょうか。

「イヤダ~!ヤメテ~!」ということで、相手が手を引っ込めることを。勇気を出してはっきりと自己主張することが必要なことを。

(事実に基づいて書きましたが名前は仮名です。)

 

突然の網膜剥離

2011年7月号

突然の網膜剥離

浅田志津子(教育・福祉関係のルポライター)

 

今月のエッセイが遅れたのには訳がある。右目が網膜剥離になり、緊急手術したからだ。6日(水)の夕方、「蚊がいる」と思ったのがはじまりだった。黒い虫(蚊)が、自分の目のまわりを飛んでいるように見えたからだ。だが、羽音が全くしないのと、目の動きにあわせて蚊が移動する状況に、これは蚊ではなく、私の右目のなかで黒い点や糸くずみたいなものが見えていることに気づく。(後で知るのだが、これは飛蚊(ひぶん)症と言い、これ自体は深刻な病気ではないそうだが、網膜剥離の初期症状である場合もあるので要注意)。

たぶん、たまった疲れが目に出たのだろうと軽く考え、翌日の七夕の夏まつりで子ども達が着る浴衣の準備をしたり、日々の雑務に追われ、目のことはあまり気にしないまま週末を過ごした。

11日(月)の朝、起きたら、右目の視野の下部分が黒くなっていた。それでも洗濯などの家事をしつづける私に、「早く病院に行け」と主人が怒り、午前中に最寄りの眼科を受診した。さまざまな検査をした末、「網膜剥離」の診断を受け、別の病院で手術するよう言われ、愕然とする。

その時点では、右目の視野も上半分は残っていたので、翌日、紹介状を持ってさいたま赤十字病院の眼科を受診することにして、ひとまず帰宅、保育園に子ども達を迎えに行き、夕飯の支度をしたりと日常の家事をいつも通りこなした。それがいけなかったのか、剥離がいっきに進行してしまい、翌朝、起きたら、右目の視野の4分の3が失われていた。

主人は仕事が休めず、ひとりで病院に向かう。医師から、剥離の進行が速く、網膜のあちこちに穴が開いてしまっていて、かなり難しいタイプの剥離だと言われ、驚愕する。ここでは手術は早くても金曜になる、一日でも早く手術すべきとのことで、急遽、都内の網膜剥離の手術で知られる眼科クリニックを紹介してもらった。紹介状を握り締めて、ひとりで左目の視力だけで電車と地下鉄を乗り継いで、その眼科に向かったときは、やはり心細かった。

そして、13日の水曜、眼球の内側から行う「硝子体手術」を受けた。手術中の御守りは、子ども達が生まれた時、産院が足首に巻く名札だった。幸い、手術は無事終了し、一昨日、帰宅する。まだ右目はよく見えず、当分は「下向き」姿勢を保ちつづけなければならない。

激動のこの一週間に自分でも驚いているが、すぐに手術してもらえて本当に幸運だった。もし、初受診が一日遅れていたら、手術は数日先になり、そのぶん病状が更に悪化して、手術がよりリスクの高いものになった危険は十分ある。それを思うと心底怖く、ぐずぐずと家事や雑務をしつづける私を、「早く病院に行け」と怒鳴った夫に感謝している。